四 和光同塵
和光同塵とは、仏が光を和らげて煩悩に満ちた俗世の塵にまみれた姿となって顕現し、衆生を救済するという思想で、日本では神の性格について説く際によく用いられた。果報が薄く、機根の劣っている辺土である日本の人間を救うために時処機相応の和光の方便として現れたのが神であるということであろう。更に進めて、仏が人として生前に苦労をし、死後神として祀られるという信仰をも形成していった。「愚管抄」の中の「観音が和光同塵して菅原道真になり、憤死後、天神として祀られる。」といったようなものである。
弘安六年(一二八三)に成立した無住一円の『沙石集』には、「本地垂迹その意同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。わが国の利益は垂迹のおもて猶すぐれて御坐すをや。…中略…青き事は藍よりいでて藍よりも青きがごとく、尊き事は仏よりいでて仏よりもたふときは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。」とあり、一般の民衆にとって、神と仏のどちらが本であろうと従であろうとあまり関わりなく、自分達に直接関り、利益を与えてくれる神仏に興味を持つと同時に、それを本当の崇敬の対象として受け止めていたと言えよう。
室町時代に入ると、仏が神の姿を借りて衆生救済に赴くという「本地物」と呼ばれる作品群(『神道集』、『群書類従』や『続群書類従』に収載されている諸社の縁起)が多く語られている。その縁起に重点を置いたのが縁起神道である。縁起神道は、各神社の御祭神の神徳の高揚をはかろうとしたものである。伊勢の御師や熊野比丘尼をはじめ、歩き巫女、勧進聖、先達、神人、説経聖、修験者、絵解法師などと称される回国遊行の宗教者や芸能者が、様々な縁起を語り歩き、あるいは、絵を見せながら縁起を語り、一般民衆の中に唱導していった。その縁起の例として次のものを揚げておく。
『神道集』収載の「三島大明神の事」には、池溝を掘り、橋をかけ、渡し舟や湯屋を設けて、民衆の労をねぎらうとともに、生活を助ける神が語られ、「熊野本地」では、印度に於いて十一面観音が和光同塵した美女は、国王の千人の妃の一人となって殊の外寵愛を受けて身ごもったので九百九十九人の妃に妬まれて山中で首を切られた。しかし、首無き母は産まれた子に乳をふくませ育て、その子が大きくなったとき蘇生してその子と共に日本に飛来し、熊野山中に鎮まったとしている。
律令時代に於いて、神職の務めは、極めて厳格な斎戒のもとに祭祀を奉仕することが第一であり、第二に神域を清浄に保ち、施設の管理を正しく行うことであった。しかし、世の中が不安定になっていったことと家の発達につれて共同体的社会を基盤にしていた神社は、より広い氏子、崇敬者等を獲得するため、神職や御師の活躍が要求されてきた。氏族や共同体の守護神である神々に対して、神と民衆を結びつける必要が生じた。如何なる形で一般大衆に根を下ろすことが出来るかが命題であったと言えよう。また、それはあくまで大衆の捉え方であり上から押しつけることの出来るものではなかったであろう。次に、根を下ろしていった一形態として、宮座について述べる。
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