何のために頑張るのかが小さい頃からよくわからなかった。
例えば学校の勉強…
「頑張って勉強しなさい。そうすればいい点が取れるから!」
なんてよく言われた。
頑張って勉強すればいい点が取れるのはわかるけど、どうしていい点をとる必要があるのかさっぱりわからない。
どうして通信簿でより良い評価を目指さないといけないのかわからない。
そら評価が悪いよりは良い方がいいだろうけど、そうはいっても良い評価得るのに必要な努力に見合う価値はないように思えた。
わけがわかならない。だるい。
だた、私は分野によっては好きな勉強もあったので、そういうものに関しては自然と努力できて結果として高い評価を得たこともありました。
だけど、いい点を目指すための、成績表で優をとるとか、そういう「良い評価」を目指すための努力って自分には出来なかった…
もちろん、そういう努力をして良い結果を残すことはそれはそれで尊いことだと思う。
念のために言っておくと、私が言いたいのはそれが良いとか悪いとかの話ではなく、自分にはそういうことができないということです。
自分の性格にもうちょっと協調性があれば違ったのかもしれない。
あるいは幼少時にそういうことを重要なこととして教育されていれば、評価を大事にしたのかもしれない。
そうはいっても実際に私はこういう評価に無頓着な人間で、そのせいで長いこと「どうして頑張るのか」に対する答えが見つけられずにいた。
しかし、私はもう20代も半ばも超え、自分のこれまでの経験を通じてその問いに対する答えははっきりと出た気がする。
やっぱり、単純に「生きていくため」だと思う。
特別なことがなかったとしても、普通に生きているだけでそこそこに大変なことはあるし、苦しいこともある。
それはテストで100点取る人でも30点の人でも同じことだ。
私もかつて、ぎりぎりの生活というものを経験したことがある。
本当に毎日必死だったし、しんどかった。
いつもいつも余裕がなくて、いっぱいいっぱいの日々だった。
後から振り返ったときに、その時自分は特に意識しなくても頑張れていると気付いた。
頑張る理由もそういうことだとわかった。
つまり、こういうことです。
基本的に世の中は弱肉強食、だから食われないようにむしろ相手を食ってかかれるように頑張る。
視点を変えてみる。
そもそも人間の生活は、山で栗を拾ったり鹿を捕まえたり海で魚を釣ったりすることが全てだった。
そういう、「食事にありつく過程」が複雑になった結果、学校で勉強したり会社で働いたりしているに過ぎない。
昔の生活ならば、頑張る理由は生きていくためなんて当たり前過ぎて考えもしなかったに違いない。
食事にありつく過程が複雑になった弊害として、あるいは世の中が豊かになったせいでそこのところが霞がかったんだろうな。
なぜなら、そういう社会は頑張ること(良い評価を出すこと)と生きていくことの関連が見えにくいから。
あるいはそこまで頑張らなくても餓死せず生きていけるから。
でも、本質は単純に生きていくために頑張るんであって、生き甲斐とか夢とかプライドとかそういうもののために頑張るわけじゃない。
生き甲斐や夢やプライドで頑張る理由を説明しようとするから、私のような頑張る理由にしっくりこない人間がでるわけで。そういうことを大事に思えない人間はあらゆることがアホ臭く思えてしまうところがあるよね。
正直、「会社での評価35歳までに決まるからね、頑張れよ」なんて言われても全くもってモチベーションには結びつかない。だから私は、「何かあった時に自分にそれを乗り切る力をつけるために頑張る」あるいは「やりたいと思ったことを実現するために頑張る」と普段から考えるようにしています。
もちろん心の余裕や遊びの大切さは理解しているけども、
上で書いた答えに辿り着いた今では、もう「なんで頑張るのか」でうだうだ悩むことはないかな。
良い評価を得るためにという答えで頑張れる人はいいだろうけど、
私のようなタイプはこんな説明を自分でしないと頑張れないのが面倒くさいね。
例えば学校の勉強…
「頑張って勉強しなさい。そうすればいい点が取れるから!」
なんてよく言われた。
頑張って勉強すればいい点が取れるのはわかるけど、どうしていい点をとる必要があるのかさっぱりわからない。
どうして通信簿でより良い評価を目指さないといけないのかわからない。
そら評価が悪いよりは良い方がいいだろうけど、そうはいっても良い評価得るのに必要な努力に見合う価値はないように思えた。
わけがわかならない。だるい。
だた、私は分野によっては好きな勉強もあったので、そういうものに関しては自然と努力できて結果として高い評価を得たこともありました。
だけど、いい点を目指すための、成績表で優をとるとか、そういう「良い評価」を目指すための努力って自分には出来なかった…
もちろん、そういう努力をして良い結果を残すことはそれはそれで尊いことだと思う。
念のために言っておくと、私が言いたいのはそれが良いとか悪いとかの話ではなく、自分にはそういうことができないということです。
自分の性格にもうちょっと協調性があれば違ったのかもしれない。
あるいは幼少時にそういうことを重要なこととして教育されていれば、評価を大事にしたのかもしれない。
そうはいっても実際に私はこういう評価に無頓着な人間で、そのせいで長いこと「どうして頑張るのか」に対する答えが見つけられずにいた。
しかし、私はもう20代も半ばも超え、自分のこれまでの経験を通じてその問いに対する答えははっきりと出た気がする。
やっぱり、単純に「生きていくため」だと思う。
特別なことがなかったとしても、普通に生きているだけでそこそこに大変なことはあるし、苦しいこともある。
それはテストで100点取る人でも30点の人でも同じことだ。
私もかつて、ぎりぎりの生活というものを経験したことがある。
本当に毎日必死だったし、しんどかった。
いつもいつも余裕がなくて、いっぱいいっぱいの日々だった。
後から振り返ったときに、その時自分は特に意識しなくても頑張れていると気付いた。
頑張る理由もそういうことだとわかった。
つまり、こういうことです。
基本的に世の中は弱肉強食、だから食われないようにむしろ相手を食ってかかれるように頑張る。
視点を変えてみる。
そもそも人間の生活は、山で栗を拾ったり鹿を捕まえたり海で魚を釣ったりすることが全てだった。
そういう、「食事にありつく過程」が複雑になった結果、学校で勉強したり会社で働いたりしているに過ぎない。
昔の生活ならば、頑張る理由は生きていくためなんて当たり前過ぎて考えもしなかったに違いない。
食事にありつく過程が複雑になった弊害として、あるいは世の中が豊かになったせいでそこのところが霞がかったんだろうな。
なぜなら、そういう社会は頑張ること(良い評価を出すこと)と生きていくことの関連が見えにくいから。
あるいはそこまで頑張らなくても餓死せず生きていけるから。
でも、本質は単純に生きていくために頑張るんであって、生き甲斐とか夢とかプライドとかそういうもののために頑張るわけじゃない。
生き甲斐や夢やプライドで頑張る理由を説明しようとするから、私のような頑張る理由にしっくりこない人間がでるわけで。そういうことを大事に思えない人間はあらゆることがアホ臭く思えてしまうところがあるよね。
正直、「会社での評価35歳までに決まるからね、頑張れよ」なんて言われても全くもってモチベーションには結びつかない。だから私は、「何かあった時に自分にそれを乗り切る力をつけるために頑張る」あるいは「やりたいと思ったことを実現するために頑張る」と普段から考えるようにしています。
もちろん心の余裕や遊びの大切さは理解しているけども、
上で書いた答えに辿り着いた今では、もう「なんで頑張るのか」でうだうだ悩むことはないかな。
良い評価を得るためにという答えで頑張れる人はいいだろうけど、
私のようなタイプはこんな説明を自分でしないと頑張れないのが面倒くさいね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます