6月のことだった。あれはまだ梅雨の名残が感じられる季節だったと思う。私はいつものように特別養護老人ホームのフロアで、目の前のやるべきことに追われていた。そんな私に、ユニットリーダーに昇進のお知らせが届いた。「おめでとうございます」と上司は言ったけれど、正直私はその瞬間、何かが崩れる音を心の奥で聞いた気がした。
その時の私は、特別何か優れているわけでもなければ、人を引っ張っていくタイプでもなかった。ただ目の前の仕事をやるだけ。むしろ「これでいいのかな?」と常に迷いながら、なんとかしがみついているような状態だったのだ。それでも、「頑張ります!」と答えてしまう。だって私はイエスマンだから。
リーダーから主任、そして課長への道
そんな私が10月には介護主任に昇進した。正直に言えば、ユニットリーダーになったばかりの時点で、いろんな不安が頭をよぎっていた。主任だなんて、どう考えても自分のキャパシティを超えている。でも、そのときも私は「はい」と答えた。そしてまた走り出した。
そこからは、自分でも目が回るような日々だった。覚えること、対応すること、背負わなければならないことが山積みで、気づけば頭の中が常にフル稼働。そんな状態だから、当然失敗も増える。「ほら、こうじゃないでしょう」と毎日のように上司から注意を受ける。最初はなんとか耐えていたけれど、だんだん自分が何をしているのか、何のために働いているのかさえわからなくなっていった。
そんな中で今年に入って突然、「課長の昇格試験を受けるように」と言われた。私の中の何かが一瞬フリーズした。課長? 私が?
能力以上の仕事と空回り
もちろん、「はい」と言った。それが私だ。だけど、心の中ではずっと「私には無理だ」と叫び続けていた。主任になってからも、能力以上の仕事をしている実感があった。頑張っているつもりだけど、空回りばかり。むしろ、努力すればするほど状況が悪化していくような気さえしていた。
しかも、休みの日だって関係ない。上司からの電話が鳴る。「責任感が足りない」「もっと自覚を持て」と注意されるたび、私の中の自信は少しずつ削られていった。それでも「はい」と答える。イエスマンだから。そして、イエスマンである以上、言われたことには責任を持つと決めているからだ。
自信のないリーダーシップ
「イエスマンしか昇進しない」という陰口が聞こえてくることもある。それを聞くたびに、「その通りかもしれないな」と思ってしまう自分がいる。でも、私は決して適当に仕事をしているわけじゃない。誰かのために、何かのために、責任を果たそうとしている。ただ、それが空回りしているのが問題だ。
最近は、部下たちの意見に同調してしまうことも増えている。彼らの言い分が正しいと感じることが多いからだ。でも、それがリーダーシップの欠如に繋がっているのもわかっている。気づけば「リーダーシップのないリーダー」という矛盾した存在になっていた。
課長への不安と覚悟
先日、施設長との面談があった。「課長になってほしい」と言われた。正直、断った。主任の昇進試験のときから、少しずつ匂わせるような話はあったけれど、さすがに課長は無理だと感じたからだ。
でも、施設長はこう言った。「何が不安なんだ?」と。その言葉に、私は自分の気持ちを正直に話した。能力への疑問、責任への重圧、失敗への恐怖――話しているうちに、気づけば「それでも頑張ってみよう」という気持ちにさせられていた。まるで言いくるめられたようだったけど、同時にそれが私自身の本音だったのかもしれない。
「ほぼほぼ課長」のこれから
こうして私は、「ほぼほぼ課長」として新たな一歩を踏み出すことになった。自信なんてない。むしろ不安しかない。でも、今の自分を変えるには、逃げずに向き合うしかないと感じている。
部下たちと共に歩み、上司の期待に応え、自分自身の限界を越える――それがどれだけ難しいことか、これから実感するのだろう。それでも、「イエスマン」として受けた責任を全うすることで、いつか本当のリーダーになれると信じている。
「ほぼほぼ課長」としての毎日は、きっとこれからも波乱万丈だ。それでも私は、粘り強さと笑顔を武器に、進み続けるつもりだ。