翌朝、越後線一番列車柏崎行きは新潟発4時54分である。その列車の前に、平日に限り、水ミト編成は新潟から吉田に回送となる。水ミト編成は、ときわ運用と共通のため、首都圏常磐線に入る三河島事故後対策の厳しい列車無線丸形アンテナが取り付けられていた。新潟寄りには2エンジン車キハ55ないし58が必ず連結されていた。列車組成は、吉田入区直後、前晩送り込まれたキロ入り新ニイ編成の新潟寄りに連結、区内線で柏崎からの一番列車123Dを待つ。123Dは、前晩最終柏崎行の折り返し一般編成4両編成。吉田駅1番線中間付近に停車、あがの号の組成されたキロ入り6両の連結を待つ。連結されると平日は線内最長の堂々10両編成が完成となり、発車となる。
元より、新潟〜内野、内野〜吉田、吉田〜寺泊、寺泊〜出雲崎、出雲崎〜柏崎と5つの輸送力段差があるため、編成を細かに切ったり、区間運転を行っていた越後線。新潟口の10両編成は、輸送力最大の黄金期を象徴していた。
あがの号は、どんな経緯を辿り、越後線の輸送力補充に至ってきたのか話を進めることにしたい。新潟〜会津若松単独運転、会津若松で、只見線会津川口、会津線会津田島発のいなわしろを編成後部に2両連結、これが仙ココの単行可能一般色キハ23ないしは52で、再び混色急行8両編成となる。会津若松からスイッチバック、郡山を目指す。郡山で再びスイッチバック。福島を目指す。福島からは、各駅停車となり、仙台を目指す。仙台到着後、いなわしろ編成は切り離され、小牛田行き各停に組成され直し、帰区となる。残された8両のうち、水ミト編成はいわき、新潟編成はあがのとなり、折り返す。仙台〜福島間は各停、郡山まで併結。郡山で磐越東線、磐越西線へと2両、4両に分割、それぞれ帰路につくことになる。いわきは平に着くと、常磐線を南下し、いわきで増車の4両となり、各停で水戸を目指す。新潟編成は4両で終点まで急行のまま向かうことになる。方向転換を繰り返し、異系列と併結され、複雑な列車体型、無駄ない運用ではあるが、片方が遅れると影響は大きくなる。関係者の努力はたいへんなものだったと推察出来る。