大きな息を一つ、ほーっとついてそれが旅立ちの合図のようでした。
眉間にしわを寄せることもなく、穏やかな表情で眠るような姿です。
2010年の初めに介護保険の利用を始め、秋ごろには在宅が厳しくなる中でショートステイや入院。
介護者の私は、仕事(夜勤もあり)と介護の調整に悩んだ。
結局、公的な介護施設ではサービスが受けられないため、10月にケア付き住宅を選択し入居した。
(母は医療的なケアがあるため、受け入れてくれる施設がなかった。病院という選択をすると、生活感のない日常になり、
母は、混乱をきたすことが予測できた。)
私は、母のもとにこまめに通えるように2011年3月に退職した。
その住宅に入ってからは、担当医や施設の職員さんたちと、健康状態や対応について相談しながら、亡くなるまで過ごすことが出来た。
おかげで、私自身が母の最期を看取ることが出来て本当にありがたいことだと思う。
一生に一度の経験で、いろいろなことを感じた。看護師である私に、母が学ばせたのかな、、、と思うくらいに。
いくつかのテーマで感じたことを残したいと思う。
≪栄養のこと≫認知症が進んでも、食べることは上手にできてむせることも少なかった。呼吸音もずっときれいだったので、誤嚥性肺炎も起こしていなかった。最後の数週間は固形物は食べなかったが、好きなものを食べられる分だけ少量食べていた。コーラが好きで亡くなる前日も介護士さんに飲ませてもらっていた。
栄養が低下した原因は、放射線治療による晩期後遺症で慢性の下痢になったことと思う。栄養が吸収されない状況となってしまった。嚥下の問題であれば、胃瘻の選択があったが放射線の後遺症での下痢なので、腸に問題があるから、胃瘻の適応はなかった(そうでなくとも、胃瘻は選択しなかったように思う)。静脈栄養は、選択しなかった。チューブにつながれるのを母は嫌っていた。(極端な脱水症状を緩和するために点滴は行った。)
≪介護保険のこと≫介護保険を利用し始めて、大体1年半で母は亡くなった。
在宅介護が出来ているうちはほぼ問題は無かった。担当のケアマネさんや在宅スタッフの方は本当に熱心にかかわってくれて、「ケアを受け入れるのが難しい」状態だったのに、私が仕事をつづけながらのスケジュールを組んでもらった。気難しい母も、嫌がらないようになった。
しかし、認知症が進行し、「1人ではおいておけない」状態になると、打つ手は無くなった。上にも書いたように、医療ケアがあると「病院で」となり、認知症があると「病院では難しい」となる。認知症ケアのある病院では「医療ケアは十分にはできないので、、、」と。
悩みに悩んで、母がどんな毎日を過ごしたいか、、、と考えたとき、「普通に暮らしたい」だろうとおもった。「医療ケア」は確かにあるが、本人にしてみれば排泄のための処置で、日常生活そのものである、病的な状態ではない。それを理由に選択の幅が狭まるのはいかがなものなんだろうと疑問に思う。
母がそのような状態なのに、介護者が夜勤もしていて「仕事は続けたい」と言っているんだから、かなりレアなケースだったのだろう。レアなケースだから、通常の介護保険の枠から外れても仕方がないことなのだろうか、、、。
最後にお世話になった場は、日常に一番近い場所で過ごすことが出来た。きっと「大変なケース」だったと思うが、、、。本当に感謝している。
≪最後のケア≫私が5月から学んでいるHANAナーシングセラピーの山口晴美さんに、「お母さんにたくさん甘えなよ!自己満足でいいから、楽になるようにサポートをしてあげて。」と励ましてもらい、習ったケアをずっと母で練習していた。低栄養でるい痩もひどかったのに、むくみはなく、肌がきれいだった。全身のタッチングケアで、循環・呼吸・代謝が母のレベルなりにうまくいっていたんだろうと感じている。
看取るときも呼吸をサポートし、耳元に話しかけ、楽しかったことをたくさん伝えた。ありがとうの言葉とともに。
お顔のマッサージをし死化粧(エンゼルメイク)を行った。85歳の母はきれいで穏やかな表情で、そばにいた介護士さんたちが「いいお顔だね」と涙してくれたり、ナースたちが「きれいだね」と、わたしを抱きしめながら、ほめてくれたりした。
「少しでも母の体を楽に」と思ってHANAを習いはじめ、母に対する最後のケアをすることが出来てよかった。これは同時に私自身に対するグリーフケアになっていると思う。