『明日の記憶』 原作:荻原浩
先日観ました。
あるエリートサラリーマンが、若年性アルツハイマーになってしまうというお話です。
アルツハイマーにかかると、少しずつ記憶が不確かになり。
精神の安定も欠いていくようです。
妻はこれを観て、恐怖を感じたようですが。
私は、あまり感じませんでした。
そこに興味を覚えたので、まだまとまりませんが一考を。
その人がその人であるというアイデンティティは、どこにあるのでしょうか。
身体か精神か。
やはり、多くはその人の”主観的な記憶”によっているのでしょう。
あの養老孟司さんが書いていましたが。
昨日の自分と今日の自分をつなぐものは何か。
物理的に見たら、昨日の自分と今日の自分は別人だそうです。
だって、一日分変わっているのですから。
でもそれを同じ自分と見ているのは、変化を変化としてみない錯覚と記憶の連続があるからだそうです。
だから、この映画は怖いのです。
記憶喪失系のお話の根源的恐怖もここから来ています。
アルツハイマーは、病気によってそれがおかされるのです。
最初は、仕事のなかの大事な約束を、すっかり忘れてしまい。
だんだん、道が分からないときが出てきて。
仕事仲間の名前も出てきません。
最後には、奥さんの名前も思い出もすべて忘れてしまうのです。
でも、そこで考えるのが。
この映画の中で、担当医師の台詞にありますが。
「人の死は、死ぬということは人の宿命です。
老いることも人の宿命です。
病気にもなります。」
そう、仏教の「生老病死」ですよね。
これは、誰も避けられないのです。
もしあなたがこのあと外出したときに、もらい事故でも交通事故に遭ってしまい。
高次脳機能障害になってしまったら。
すべてが決して物語の中だけの話ではありません。
自分にも、いつでも起こりうる事態の一つに過ぎないのです。
『きみにしか聞こえない』(原題「Calling You」)が映画化された乙一さんの、『失われる物語』は正反対のお話です。
交通事故によって、右腕のわずかな感覚と、人差し指しか動かせない身体になってしまう物語です。
精神と記憶はおかされませんが、外界とのコミュニケーションがほぼ失われてしまうのです。
そこでは、ほぼ植物人間とかした夫の介護に徐々に壊れていく妻を、右腕の感覚のみを通して感じ、あまりの辛さにある決断をします。
このお話も、正反対であるが故に、同じような恐怖を抱いているように思えます。
コミュニケーションが行えないことによって、記憶の共有ができないのです。
今現在、心身が丈夫であっても。
それは、あらゆる条件すべてを満たす、危ういバランスの上のことでしかありません。
でもどんなことがあろうとも、”その人”は”その人”で。
結局”あらゆる条件を受け入れて、今を生きる”しかないのです。
病気になっても。
怪我をしても。
精神をおかされても。
これを『諦観』というのかもしれません。
『諦』という字は、「あきらめる」という意味もありますが、同時に「明らかにする。真理」という意味もあります。
「明らかにされた」「真理」は、「あきらめて」受け入れるより仕方ないのです。
「生老病死」
「諸行無常」
いま自分にできることは、「もし周りがそういう状態に陥ったときに、できる限り助ける」という”決心”と。
「もし自分がそうなってしまったときに、周りに助けてもらえるような人間である」という”心構え”だけだと思っています。
先日観ました。
あるエリートサラリーマンが、若年性アルツハイマーになってしまうというお話です。
アルツハイマーにかかると、少しずつ記憶が不確かになり。
精神の安定も欠いていくようです。
妻はこれを観て、恐怖を感じたようですが。
私は、あまり感じませんでした。
そこに興味を覚えたので、まだまとまりませんが一考を。
その人がその人であるというアイデンティティは、どこにあるのでしょうか。
身体か精神か。
やはり、多くはその人の”主観的な記憶”によっているのでしょう。
あの養老孟司さんが書いていましたが。
昨日の自分と今日の自分をつなぐものは何か。
物理的に見たら、昨日の自分と今日の自分は別人だそうです。
だって、一日分変わっているのですから。
でもそれを同じ自分と見ているのは、変化を変化としてみない錯覚と記憶の連続があるからだそうです。
だから、この映画は怖いのです。
記憶喪失系のお話の根源的恐怖もここから来ています。
アルツハイマーは、病気によってそれがおかされるのです。
最初は、仕事のなかの大事な約束を、すっかり忘れてしまい。
だんだん、道が分からないときが出てきて。
仕事仲間の名前も出てきません。
最後には、奥さんの名前も思い出もすべて忘れてしまうのです。
でも、そこで考えるのが。
この映画の中で、担当医師の台詞にありますが。
「人の死は、死ぬということは人の宿命です。
老いることも人の宿命です。
病気にもなります。」
そう、仏教の「生老病死」ですよね。
これは、誰も避けられないのです。
もしあなたがこのあと外出したときに、もらい事故でも交通事故に遭ってしまい。
高次脳機能障害になってしまったら。
すべてが決して物語の中だけの話ではありません。
自分にも、いつでも起こりうる事態の一つに過ぎないのです。
『きみにしか聞こえない』(原題「Calling You」)が映画化された乙一さんの、『失われる物語』は正反対のお話です。
交通事故によって、右腕のわずかな感覚と、人差し指しか動かせない身体になってしまう物語です。
精神と記憶はおかされませんが、外界とのコミュニケーションがほぼ失われてしまうのです。
そこでは、ほぼ植物人間とかした夫の介護に徐々に壊れていく妻を、右腕の感覚のみを通して感じ、あまりの辛さにある決断をします。
このお話も、正反対であるが故に、同じような恐怖を抱いているように思えます。
コミュニケーションが行えないことによって、記憶の共有ができないのです。
今現在、心身が丈夫であっても。
それは、あらゆる条件すべてを満たす、危ういバランスの上のことでしかありません。
でもどんなことがあろうとも、”その人”は”その人”で。
結局”あらゆる条件を受け入れて、今を生きる”しかないのです。
病気になっても。
怪我をしても。
精神をおかされても。
これを『諦観』というのかもしれません。
『諦』という字は、「あきらめる」という意味もありますが、同時に「明らかにする。真理」という意味もあります。
「明らかにされた」「真理」は、「あきらめて」受け入れるより仕方ないのです。
「生老病死」
「諸行無常」
いま自分にできることは、「もし周りがそういう状態に陥ったときに、できる限り助ける」という”決心”と。
「もし自分がそうなってしまったときに、周りに助けてもらえるような人間である」という”心構え”だけだと思っています。
自分が、また自分の大切に思う人がそうなったら・・・
まあ、そうなったらそうなったで諦めて、
自分のできることをしていくことしかないんですけどね~。。。
バイク事故で死に掛けたとき、
死ぬ恐怖もありましたが、それ以上に、
僕を必要としている人、大切に思ってくれている人たちへの申し訳ないという気持ちが強かったです。
あと、やはり諦めの気持ち。
死んだら死んだで仕方ないなって。
死ぬつもりはなかったですが。
憎まれっ子世にはばかる、って言葉を真っ先に思い浮かべた自分はヒネクレモノでしょうか・・・^^;
ま、何が間違ってるとかってのもないんですけどね。
自分はもっと簡単な言葉でくくってます。
内容は同じ事なんですけど。
あるがままとないものねだり。
今日の自分はあるがまま、昨日の自分はないものねだり。
付け加えると明日の自分もないものねだり、ですかね。
結構わかりやすい便利な言葉です。
わからない人には簡単に言っても難しく言ってもわからない。
そういう人はおいらはほっときますが、ぱてぃかはさんは立場上そうはいかないから大変だよねw
ホンクンさんの言葉にありますが、何が間違ってるとかってないので、お二人の言葉にもすごく考えさせられます。
べーやんは、何かを失いかねない一歩手前までいった言葉。
そのとおりだと思います。
あるがままとないものねだりw
面白かったです。
そうですね。
あははwなんだか、気が楽になります。
本当にそうだと思います。
今日は、ちょっとまじめなぱてぃかはでした。