black potion no.6

三十路のモーターサイクル好き、徒然日記です。

『誰も守ってくれない』 感想 その壱

2009年02月24日 13時09分47秒 | movie
公開終了間近の映画です。(参考HP

ある平凡な日常の中、主人公の兄が逮捕されます。
近くの公園で遊んでいた小学生の姉妹を刺殺した容疑で。

その時から、世界は彼女に関係なく、怒涛のように流れていきます。
この映画は、そこから彼女と彼女をマスコミや世間から保護するために格闘していく刑事のお話です。


先日フジテレビで放送された『誰も守れない』が、この映画のスピンオフでありました。
この映画の舞台の前を描いています。
テーマは、映画とは逆の「被害者家族の保護」です。

このドラマを見ていないと、たぶん、劇中いきなり登場する木村佳乃さんのことがよく分からないのでは?
彼女は、このスピンオフで保護される被害者家族の一人で、もう一人の主人公である刑事のカウンセラーでもあるのです。


とりあえず、内容は観ていただくとして(いずれどちらもレンタルビデオで出るのではw)。


いくつか感想を。


1:罪と罰の構造
2:ゆるしの構造
3:守るということ


1:罪と罰の構造


今回の設定で、唯一の罪は、主人公の兄が幼い姉妹を刺殺してしまったことです。
しかし、この映画のテーマでもあるように、逮捕直後から容疑者家族へのバッシングがはじまります。

そこで、ある新聞記者(佐々木蔵之介)が、刑事につめよります。
「容疑者の家族も同罪だ。(容疑者と)同じように死ねばいい。」
そのような内容の言葉をぶつけました。


この話を聞くと、連他責任という言葉を思い出し、次にこの本を思い出した。

「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎

仏教では、人は条件さえそろえば、何でもやるといいます。(縁起説)
戦争の場で起きる、殺人・略奪・暴行など、ふだんなんでもない音楽を愛する一青年が起こしていたりするのです。
それは戦争という条件がそろってしまったから。
また、ある心理実験で、被験者を看守と囚人に分ける実験がありました。
そうすると、最初は役で遊んでいた被験者たちも、だんだん看守と囚人に見事に立場が分かれてしまい、収拾がつかなくなり実験をストップさせたそうです。
この実験は、被験者たちに多大な精神的被害を与え、映画化もされました。
(参考:『es』)

ゆえに、誰でも(本当に誰でも)条件次第で加害者にも被害者にもなれると考えます。
そこから考えると、罪は罪として、あがなわれなければならないのはどこまでなのでしょうか。

また、罰に関しては。

キリスト教では、「復讐するは我にあり」(新約聖書ローマ人への手紙・第12章第19節)と説きます。

ウィキペディアから引用すると。
その全文は「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」(引用『』は申命記32:35。ヘブル人への手紙10:30もこの箇所を引用)。これは「悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう(参考;詩篇94:1)。」という意味である。
とあります。

当事者として、第三者として、罪を犯した人をどこまで罰せるのでしょうか。


いまさら私がここで持ち出すまでもないことですが。
罪は罪として、兄が少女たちを殺したところにのみにあり、そこ以外にあがなわれるべき罪はないと、私は考えます。
たぶんその上での、集団心理の怖さを説いているのでしょうが。
稚拙な考えを巡らせました。

長くなったので、続きますw

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