「重なる記憶~体験者が語るいま~」 【 教育基本法 】(琉球新報 2015 5.11)
「国のために命を捨てることを疑わなかった」。多くの戦争体験者が話す。なぜ国民がそこに流れていったのか。琉球大学の佐久間正夫教授(教育行政学)は「教育の効果はじわじわ進んでいったから」と説明する。
御真影が沖縄師範学校に下賜されたのが1887年。教育勅語が出されたのが90年で、沖縄戦の55年前だ。佐久間教授は「教育勅語が出された時に10歳だった人が沖縄戦の時には65歳。当時の平均寿命を考えると、社会全体がこの頭で成り立っていた。50年以上かけてつくられてきたものだ」と指摘する。
皇民化=日本化
沖縄にとっての皇民化教育とは日本本土とは違う意味を持っていた。御真影奉護隊補助員だった屋比久浩さん(84)は「薩摩の琉球侵略からの悲しい歴史の行き着いた先が、徹底した皇民化だった」と話す。
沖縄大学の新城俊昭客員教授(琉球・沖縄史教育)は「沖縄の皇民化が進んでいくのは日清戦争(1894年)後」と指摘する。
日本が清に勝利したことで「琉球処分」以来、日清間で争われていた琉球の帰属問題に決着がつき、それまで抵抗していた人たちも日本化を受け入れていった。
日本は1873年に徴兵令を公布。この23年後の96年に沖縄の小学校教員に、98年に一般県民にも徴兵令が実施された。県民の意識が日本へのどうかを受け入れるようになったころだ。
指導的立場にある人たちは沖縄にも徴兵令が施行され、国民の義務である兵役を王ことで沖縄県民も日本国民の仲間入りができると歓迎した。
「二等国民」としてさげすまれた沖縄。血を流すことで臣民として認められようとした。
進む「教育改革」
天皇から見た望ましい「臣民」の姿を説いた「教育勅語」。佐久間教授がその類似点を指摘するのが、第一次安倍内閣の2006年に前面改正された教育基本法だ。
旧教育基本法は教育勅語を否定し、それに代わる教育宣言として誕生した。内容は日本国憲法の根本原則である平和主義と民主主義を教育目的として積極的に取り入れ、前文では個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成を目標とした。
一方、改正教育基本法は前文が変わり、憲法との一体性が断ち切られた。第2条「教育の目的」では、生命を尊ぶ、自然を大切にするなどの細かな徳目を列挙。佐久間教授は「国家から見た望ましい態度、規範を規定している」と説明する。
さらに、保護者の責任を強調している点や、学校、過程、地域の相互協力を義務付けている点などを挙げ、「旧教育基本法は権力を縛るものだたが、改正教育基本法は権力が国民や教員に行為規範、徳目などを命令する内容に変更されている」と法としての性質が百八十度転換させられていることを指摘する。
道徳の教科化、教育委員会制度の変更など「教育改革」が進む。佐久間教授は「人間の統制には教育が役立つことは為政者はよく知っている」と危機感を示した。
(琉球新報 2015年5月11日)
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