■ワイマール憲法は国際的にタブーである
ワイマール憲法そのものが国際的にタブーとなっていることである。口でこそワイマール憲法というものは決して珍しい言葉ではないかも知れないが、現実にその内容に関してはタブーの網が張られていることに存外気がつかないものである。
他章でも述べる如く、フランクリン・ルーズベルトは、ユダヤの世界では今日絶対のタブーとなっている。したがって、ルーズベルトに関するあたりさわ りのない評はいろいろ出ているが、その本質をうがったものは皆無に近いといえよう。このため、第二次大戦の真因はだいぶ混乱させられているのだ。
では何故、ワイマール憲法はユダヤ人にとって都合が悪いのであろうか。それはその本質を徹底的に掘り 下げれば分かることであるが、そこに発見されるものはナチズム台頭の必然性である。何故ナチズムが発生したのか。今日までナチズムに関する著書はあまたあ るが、真因を突きとめたものはないようである。大抵の場合、例の「集団発狂伝説」といわれる類いのものである。
しかし、このワイマール憲法を深く掘り下げるときそこに発見されるのは、自然の摂理にそむくものを内包しているということである。ひるがえって、日本国憲法のルーツを探るためにも、このワイマール憲法の本質にメスを入れることが焦眉の急となってくるわけである。
このワイマール憲法というものは、一口でいえば、中世以来、言語に絶する苦難の道を歩まされた在独ユダヤ人の血の出るような最低限の要求を実現させたもの といえよう。問題がそれだけなら、それはそれとして結構であるというべきかも知れない。しかし、実は、それだけではすまないものである。ここにこそ問題が 秘められているといえよう。この点については逐次詳述するが、日本国憲法も重要な部分はこれと全く軌を一にするものなのである。
ワイマール憲法は表面に出すことをタブーとされ、日本国憲法は改訂を唱えることをタブーとされている。真に皮肉なパラドックスである。何故このよう な逆説が生じるのか。その理由は、ドイツ国民はワイマール憲法をまたたくまにその虚構性を発見して引きずり下ろしたが、日本国民はいまだその虚構性を発見 できずその呪縛の中で呻吟していることにあるといえよう。
ユダヤは、ワイマール憲法に関してはいま述べた如く内容を吟味する余地を与えず、「最も民主的な憲法」というふうに盛んに言葉の上だけの宣伝をしているのである。それがさらに日本では尾ひれをつけられて「平和憲法」というふうにまで拡大されている。
例えば国家公務員試験にこんなのがある。例の○×式解答を求めるもので、「日本国憲法は、ワイマール憲法の平和主義を含めた基本原理を全て継承した 現代資本主義憲法である」というのがある。こういう問題に答えさせられる受験生こそいい迷惑と思うが、それはそれとして、ワイマール憲法を「平和憲法」と するのは一体何の根拠からか。
恐らくは日本国憲法との類似性を質する問題を作成する者のことであるから、短絡に日本国憲法が「平和憲法」といわれるぐらいだから類似性の強いワイマール憲法もそうであろうといった程度の認識から発したものと思うが、いずれにせよ「平和憲法」とまで拡大評価されてはさすがの 我々も少々くすぐったいのである。
話は少し横道へそれたが、ワイマール憲法を「民主的」と宣伝する我々であるが、憲法の中身には「民主的」という言葉は一語も出てこない。これは日本国憲法 についても同様である。考えてみれば大変奇妙なことではないか。実はこの点にこそ、今日的意味の「民主主義」という絶対の善玉の神を意味する言葉の本質を 見出すことができるのである。
今日いわれている「民主主義」とは何ら実質的概念を伴うものではない。絶対に相容れることのない2つの概念、「自由」と「平等」に相関関係をもたせ る必要からユダヤ人が考えついたものにすぎない。非両立性をもつ「自由」「平等」をバラバラに宣伝したのでは効果が薄い。
したがって、この矛盾する両概念 を並行して同時に追求させてこそ真の効果を期待できると考えたものである。つまり「民主主義」の役割は相矛盾する両概念のコーディネーターということである。
さて、これからは日本国憲法のそっくり母体となっているワイマール憲法の内容を具体的に拾い上げて、日本国憲法のそれと対比しながら、如何に日本国憲法がワイマール憲法をベタ写ししたものであるかということをご説明したいと思う。
■マルクスは「すべてを疑え」といった
マルクス主義についてもそうだが、この日本国憲法についても、すべてを疑ってかからないと永久に迷宮入りになるだろう。左翼陣営はマルクス主義の宗教的呪 縛力でがんじがらめにされているのであるから別であるが、醒めた正しい考えをもった人々まで、この日本国憲法に関してはそこに何か動かし難い真理が蔵され ているかの如く錯覚しているように私には見受けられる。
その原因を私は考えてみた。そして発見した結論は、この憲法の中に「理想」を具現化した要素が多分に混入されているということである。誤解しても らっては困るが、ここでいう「理想」とは「現実的でない」という意味である。この「理想」が日本人の判断を狂わせているのだと思う。
この「理想」とは夢にすぎないものであるが、しかし終戦直後の精神的虚妄状態にあった日本人に、この夢にすぎないものまでがかえって感謝されたのか も知れない。しかし、これは本質的には大衆デマゴギーなのである。
大衆心理を考えると、この「理想」が「非現実的」なものであってもこれを批判することは できないのだろう。またそうさせているのが「民主主義」というものの悪弊であろうと思う。あるいは日本の良識ある人々でさえも自らこれを理想的なもの、最 も高尚なものと知らず知らずに信じ込んでしまったのだろうか。
私がここで言いたいのは、何よりも先ず日本人はこの憲法を疑ってかからなければならないということである。従来まで見てきた角度を捨て、逆の角度からこれをもう一度観察することである。
(中略)
■日本の戦後占領体制はユダヤ人の君臨しないワイマール体制
ワイマール憲法と日本国憲法は、そのイデオロギー性については全くといっていいほど同じものである。しかる にただ一点、ワイマール憲法下のドイツと日本国憲法下の戦後日本とでは根本的に異なる点がある。それは、ワイマール憲法下のドイツは直接ユダヤ勢力が君臨 するものであったということである。日本にはユダヤ人は存在しない。ワイマール体制というのは、少数民族たるユダヤ人が権力を初めて握った時代であるとい うことである。
一方、戦後日本では一時期占領軍(これを事実上支配していたのはユダヤ勢力──もっとはっきりいえば ニューディール派)というものがオールマイティであったが、これは日本国内に永久に存在する勢力ではない、いわば国際的ユダヤ勢力である。占領が終われ ば、引き上げざるを得ない。そこにケーディス以下の焦慮があったわけである。
だが現実には自分達は引き揚げても、己のエピゴーネン(亜流、継承者)を養成して残していった。それ が日本共産党である。このエピゴーネンは真に忠実に主人のために働き、戦後30余年たった今日でもケーディスの心配を吹き飛ばすかの如く日本国憲法には一 指だに触れさせていないのである。
(中略)
■階級闘争の持ち込み
第28条「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」
これも、この憲法を作成したユダヤグループの最大の目的とするものの1つである。このような実体法に属するものを憲法に組み入れるのは常識外であり、法学の素人のすることである。
ルーズベルトの若手ブレーンの一人であった作者ケーディスは、ルーズベルト政府の下で労働問題をある程度研究していた。ジュー・ディールと皮肉られ たニュー・ディール政策は一口にいえば共産主義化政策に他ならないが、ルーズベルトは1933年5月12日に「農業調整法」を作った。
これはインフレ政策 の本質を暴露したものであった。その他、「産業復興法」を作っている。これは同業間の自由競争を排除せんとする目的のものであり、政府が産業統制に合法的 に乗り出そうとするものに他ならない。さらに重大な点は、最低賃金を規定し、労働者の団体交渉権を強引に認めることにしたのである。
これらのルーズベルト政府の共産主義的政策は1935年頃から徐々に馬脚を現わし、景気回復を幻想と化し、独占の強化、資本対立の激化、労働不安の拡大とアメリカ資本主義を根底から崩しつつあった。
さすがにたまりかねた連邦最高裁は蛮勇を振るい、1935年5月、ついに憲法違反の判決を下したのであった。ルーズベルトもこれ以上の共産主義的政策を続行するのを断念せざるを得なかったのであった。
ルーズベルトはこれら国家的破滅を推進したのにもかかわらず、次の選挙では労働界の大きな助力を得ることになった。このことは、ルーズベルトが本質 において共産主義者であったことの証左として一般に考えられていることである。ケーディスは若手法律ブレーンとしてこれらの問題にかかわってきたのであっ た。このケーディスが、日本国憲法にこの階級闘争を持ち込んだのである。
■ユダヤ的思考の所産は明治憲法にも
なお、大日本帝国憲法においても、第25条から第29条まで、「住所の不可侵」「信書の秘密の不可侵」「財産権の不可侵」「信教の自由」「言論著作印行集 会及結社の自由」という項があり、なにも日本国憲法に限らずこのような被圧迫民族の基本権と類似する項目があるではないかと問われるかも知れないが、それ は大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅がドイツのユダヤ法学者の影響を受けているためであり、ルーツは同じものである。当時ドイツの法学界はユダヤ 人法学者が牛耳っていた。
次は伊藤博文の文である。
「現時の国法においては、君主は国家の上に位せず、国家の中に位し、君主は国家の統御者にあらずして国家の機関となれり。君主は国家の機関にして国 家のために活動すべしとの思想は、すでにフリードリッヒ大王の有名なる『君主は人民を支配するところの専制君主に非ず、国家の最高機関なり』との語におい て発表せられたり。」
すでに美濃部達吉の「天皇機関説」の萌芽を見ることができる。
他には井上毅もプロイセン憲法の研究者としてつとに有名であり、当時のドイツにおける憲法学者が皆ユ ダヤ人であったことを考え合わせる時、思い半ばに過ぐるものがあろう。何故ユダヤ人が特にドイツにおいてこの憲法問題に熱心であったかというに、これが国 家を内部から転覆させるマルクス主義国家論への捷径であることを知っていたからに他ならない。
伊藤博文から美濃部達吉に至るまで愛用した「機関」という言葉は、ドイツのユダヤ人の間では、マルクスももちろんこの Organ という言葉が大好きだったのであるが、階級闘争における「支配者」が「被支配者」を「抑圧」「搾取」する「手段」「道具」という意味で専ら使われていたのである。
恐らく伊藤博文も美濃部達吉もこのユダヤ人の真意は知る由もないのではないか。ドイツはあくまでドイツであり、その中で絶対相容れない、中間とい うものの存在する余地のない民族闘争が繰り広げられていたとは、夢にもご存知なかったのであろう。
天皇主権説学派の穂積八束は、ドイツ滞在中ずっとラバントについていた。このラバントは当時のドイツ法学界、とくに憲法研究者の中でも珍しくユダヤ人ではなかった。帰国後、伊藤博文、井上毅らと違って、ユダヤ的機関説学派を攻撃したのもそのためであった。
伊藤博文が憲法研究のため会った人物は、ドイツのルードルフ・グナイストとオーストリアのローレンツ・フォン・シュタインであった。いずれもユダヤ系であった。ただここで一つ非常に残念なことは、伊藤博文が帰朝後提出した復命書が公表されていないことであり、これは明治憲法研究上の一大遺漏を生ぜしめている。
次回は
■日本共産党を育てたのは我々の最大の誤りだった
●「日本人に謝りたい」あるユダヤ長老の懺悔
1979年 日新報道(刊)
モルデカイ・モーゼ (著), 久保田 政男 (翻訳) より
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