冥土院日本(MADE IN NIPPON)

賑やかな闇 その1

丹光に始まって、気の流れやオーラを見ることが出来るようになったのは数年前のことである。その体験は過去ログ「スピリチュアル実践記」でご紹介した。その後肉断ちを始めてもう3年近くになった。特別なトレーニングをしているわけでもないが、肉断ちの効果があったのか、年々霊感の感度が上がっていることが自覚できる。今年に入ってからは意識すれば第2層から第3層のオーラの色が見えるようになってきた。

丹光や気が見えるようになった当初は睡眠不足に悩まされたものであった。電気を消して寝床に入り目を閉じると、まず丹光が現れる。次に色とりどりの幾何学模様。続いて真昼のような白い光や閃光が現れてくる。目を開ければ、もうそこは暗闇ではない。わずかに窓から漏れる薄明かりの中で、微かな「白い光芒」や、お湯が沸く際のゆらゆらとした水の対流に似た「気の流れ」があちこちの物から立ち上っているのが見える。

良く観察すると人や植物などの生物だけでなく、生命の無い物も「気」を出しているのである。そしてプラーナがあらゆる空間で光を放って飛び回っている。それは暗闇とは思えない賑やかさなのである。最初の頃はあまりの賑やかさに眠ることが出来ず、少なからず困惑した。しかしこれらの光を見る、見ないのスイッチの切り替えを会得してからは、問題なく眠れるようになった。

「プラーナ」も「気」も「オーラ」も同じエネルギーであることは過去ログでも紹介したが、私流では次のように定義している。「プラーナ」は白昼では白い雨粒のような光であり、暗闇では白い点のように光るもの。「気」は暗闇の中で、色は無いが白い光芒やゆらゆらとした動きを見せるもの(実はオーラなのだが、色が無いモノクロ)。そして様々な色を発している「オーラ」である。これからはこの定義に基づいてご紹介していきたいと考えている。

コメント一覧

n & c
初めましてm(__)m
私もフォトン様と全く同じ体験を現在しており、ネットでこの症状は何か探していたら、こちらにたどり着きました。
謎が少しずつ解明されていき、また、同じ体験をされてる人に出会えてとても嬉しいです(*^-^*)
私はまだ人や物のオーラまでは見えないです。
透視の様なことは一度ありました。
丹光はほとんど青(群青に近い)か白色です。
いつかはフォトン様のようにオーラが見えるようになったら…面白そうです(^.^)♪
フォトン
タケダさん
コメント有難うございます。
タケダさんの文章から、貴方の誠実なお人柄が良く分かります。多くの悩みを抱えていらっしゃるようですね。

霊性に目覚める(気づきが始まる)と必ずと言って良いほど、多くの問題が噴出してきます。そのような事が起こるのは、その人が抱えるカルマの解消が始まっているからです。

現世を欲望のままに生きて、今生の間にカルマを解消出来ないと、あの世でその大きな代償を払わなければなりません。それでも償うことが出来なければ、またこの世に再生して、さらに苛烈な人生の中でカルマの解消をしなければならなくなります。

霊的真理の価値感と現世の価値感は正反対のようです。現世的には納得出来ないような状況に置かれても、それに耐え、霊的真理に基づいて、問題に対処していくことが、この世での学びでです。迷い悩むことこそカルマの解消の第一歩なのです。

この世の価値感で悪い結果であっても、あの世では良い結果であることも多いのです。この世の価値感で判断しないことです。そして自分を卑下したり、否定するようなことはやめましょう。弱い自分を認め、愛してあげてください。

人間は霊的存在でありながら、肉体をまとっています。肉体をまとうということは、ある意味弱い存在なのですから、弱いのは当たり前なのです。


スピリチャルな体験を実践する時は、自分の波動が高まっている時か、下がっている時かを良く判断してから行ってください。波動が低下している時は低次元の世界に迷い込んだり、低級霊などの影響を受けやすくなります。

尾てい骨が脈打つ感じというのは、クンダリーニが上がろうとしているのかもしれませんね。
私も数度体験しましたが、クンダリーニが上昇すると一時的に様々な体調の変化や霊能力が増す事があります。クンダリーニについては参考までに下記のHPをご覧ください。
http://www.alpwork.co.jp/shikoutaiken/kundalini.html


タケダ
目から鱗
子供の頃、空などを見たときにキラキラと動き回る光…誰かからそれは「目の中の白血球だ」と聞かされ、多少の疑問はあったものの、そんなものかと思っておりました。そうして人生数十年。あれがプラーナだと教えていただき驚いています。
若い頃はスピリチュアルなものに多大な興味を持ち、自己流で瞑想もしておりました。らせん状に現れては消える美しい青紫の光。それが丹光だということも最近になって知りました。探究心だけは大きかった為、色々とおかしな実験をしたこともあります。昼寝時などに誰かが手に触れてきたりと、現実か夢かわからない体験をしていた時期だったと思います。だったら、例えば夢の中で100%意識があったら夢は自分の思い通りに展開するのか、といったことを考え出しました。夢の中で夢を認識する。ですが結果は散々でした。夢だと認識できるまではいったのですが、帰れなくなってしまって…崖から落ちるとか汽車に飛び込むとかして何とか衝撃で目覚めようとそれはもう必死でした。で、目覚めてみれば実はそれもまた夢で。三度目くらいにやっと目覚めた後にはひどい虚無感が残ってしまって三日ほどは空ろな精神状態でした。
以来、なんとなくスピリチュアルな現象から距離を置いて暮らしてきました。光や不思議現象などを全く求めることなく、精神性のみを高めてゆこうとする友人の存在があったせいもあります。尊敬する友人のその姿勢こそが正しいのではないか、と。
ですがフォトンさんの記事に触れ、『しかし一旦、気(プラーナ)やオーラを見ることが出来るようになれば、自分自身に秘められた神性というものを理解しやすくなるものである。オーラに包まれた自分というものは本当に神秘的であり、荘厳で美しい。そして、生き物が発するオーラの輝きを見れば、生命の重さと尊厳を心から納得できるであろう』という行を読んだとき、正直とても嬉しかったのです。
多くの迷いや焦り、自分自身への不信感に苛まれている現在の私です。自分もすばらしい存在なはずなのに、それを感じることができません。自分をだめな奴だと思い、一方でそんなことはないんだよ、ともがいています。
初めてあの青紫を見たときの感動。なんて美しいんだと心が躍りました。人は霊的な存在なのだ、と確信できるまでに例えようもなく綺麗だったのです。このまままっすぐに生きてゆけばいいのだ、と思いました。この思いがあれば何も迷うことはない、と。
あのときの感動を取り戻せたら、と今の私は考えています。光とはやはり希望なのでしょうか?美しい光、輝きに触れることにより、癒されるような気がするのです。自分が見失っている生命力を呼び起こすことができるかもしれないと。
なんだかぐだぐだとはっきりしない文面で申し訳ないです。要するにフォトンさんのおっしゃることから勇気をいただきました。私の苦悩を解決する手段は意外にも自分の中にあったのではないか…と。もう一度「変化」する必要があるのではないか、という気づきでしょうか。いずれにしてもこの気持ちを文章にするのは難しいようです。すみません。
最後に、最近見た光はやはり綺麗でしたが、少し弱々しいようです。もはや螺旋ではなく、中止に向かって吸い込まれてゆくような感じでした。そして、最近尾骶骨が少し…。夜中に脈打つ感じで不眠になるときもあります。馬鹿な夢実験の二の舞は踏まないようにと、就寝時はささやかに瞑想しているだけなのですが…。何かが間違っているとは思えないのですが、何かご意見をいただけると大変嬉しいです。
これからも楽しみに記事を読ませていただきます。沢山のことを教えてください。ありがとうございました。

最近の「スピリチュアル」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2021年
人気記事