#韓弘 新着一覧
憲宗宰相史4
淮西吳少陽が卒し、子の元濟が自立したため淮西征討が再発します。そのうえ成德王承宗・淄青李師道が藩鎭強硬派宰相の武元衡を暗殺したため、激怒した憲宗皇帝は成德征討をも再開します。淄青は当面陰...
淄青 李師道の乱 2
元和13年5月忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道征討の先鋒としました。河陽都知兵馬使曹華...
淄青 李師道の乱 1
淄青節度は李正己-納-師古と続き、十二州を領有し経済的にも安定していました。師道は師古の...
淮西 吳元濟の乱 2
元和11年7月宦官達の支援がある高霞寓は歸州刺史への左遷で収まり、李遜も巻き添えで恩王傳に...
淮西 吳元濟の乱 1
元和9年閏8月淮西節度使吳少陽が卒しました。少陽は罪人を集めたり、隣地の壽州の茶山を掠奪...
淮西 吳少誠の乱
貞元2年6月李希烈に寵愛されていた少誠は、唐に帰順していた節度使陳仙奇を殺害し自立しまし...
汴州宣武軍節度使を公開します。
汴州宣武軍節度使は江淮からの漕運を黄河に移転する要地で、唐朝にとっては非常に重要で確保...
貞元十三~十五年 西暦797~99年
三月、築方渠、合道、木波三城鹽州城ができて吐蕃の不意の入寇はなくなったが、まだ京師は安...
元和十四年 西暦 819 和暦 弘仁十年 2
七月戊寅,宣武韓弘が汴宋毫潁四州を上納し入朝した。 淄青が滅び、もはや漕運の重要拠点で...
元和十年 西暦 815 和暦 弘仁6年
二月甲辰,征討使嚴綬は淮西軍に磁丘で大敗した。 相変わらず唐朝軍は弱く、綬は將才が無か...
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