唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青 李師道の乱 1

2022-12-31 08:05:31 | Weblog
淄青節度は李正己-納-師古と続き、十二州を領有し経済的にも安定していました。
師道は師古の異母弟でしたが、兄弟仲は悪く師古は「師道のような愚者に継がせれば国は亡ぶ」と言い、常に排斥し知密州事として僻地においていました。
師道は政治性は乏しかったのですが、文化人で絵画や音楽に造詣がありました。

元和元年閏6月
師古が卒すると、幕僚達は師道を擁立しました。幕僚達は文人ですから師道に好感を抱いていたのでしょう。

朝廷は西川劉闢の征討中でしたのでやむを得ず、建王審を鄆州大都督平盧淄青節度使とし、節度副使李師道を權知鄆州事充節度留後として継承を認めました。

元和元年9月
留後師道は檢校工部尚書平盧淄青節度副大使知節度事となりました。

その後、成德王承宗を密かに支援していました。

元和7年魏博田弘正の就任に干渉して出兵しようとして、宣武韓弘に阻止されました。

元和10年成德王承宗と淮西吳元濟の継承を支援しましたが、憲宗皇帝に拒否されました。

師道は不満を持ち、兵二千人を淮西に送りました。
また養っていた刺客に、河陰轉運院を襲撃させ、錢帛三十餘萬緡匹、穀二萬斛を焼かせました。

元和10年6月
師道の刺客達は王承宗麾下と、藩鎭強硬派の宰相武元衡、御史中丞裴度を襲撃して元衡を殺害し、度を負傷させました。
朝廷は承宗の仕業と判断しましたが、実際の実行犯は師道の麾下でした。

元和10年8月
師道は嵩山僧圓淨.將訾嘉珍に淄青東都進奏院に潜ませた數百人の兵を蜂起させ、弱体の東都の守備をつき宮殿等を焼き払う計画でしたが、事前に密告があり留守呂元膺は進奏院を包囲させました。圓淨等は突出し嵩岳に入りましたが捕らえられ処刑されました。また武元衡暗殺の首謀者が師道であることも知れました。

元和10年11月
師道兵が徐州に侵攻し、蕭、沛數縣を攻めましたが、武寧節度李愿の將王智興が撃退しました。

元和10年12月
武寧軍都押衙王智興が師道兵を平陰で破りました。

元和11年10月
師道は淮西の劣勢を聞いて一応謝罪し検校司空を与えられました。唐朝は成德・淮西の征討にかかっていて淄青まで手が回らなかったのです。

元和12年11月
淮西吳元濟が滅亡しました。

元和13年正月
師道は狼狽して帰朝を請願しました。
沂、密、海三州を献納し、長子を人質にするという条件でした。そこで諫議大夫張宿が派遣されましたが、途次に急死したため、左常侍李遜が派遣されました。

元和13年3月
滄景程權が帰朝しました。

元和13年4月
師道は闇弱で妻魏氏や家奴達に左右されていた。魏氏は子を人質にするのは反対で、それに師道は動かされ帰朝を主導した幕僚達を投獄しました。遜は師道の帰朝は偽りであると上奏しました。

成德王承宗が徳棣二州を献納し、実子を人質とする条件で帰朝しました。師道は出遅れて孤立してしまいました。憲宗皇帝は淄青を滅ぼす決断をしました。


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