七月戊寅,宣武韓弘が汴宋毫潁四州を上納し入朝した。
淄青が滅び、もはや漕運の重要拠点である汴州の独立が許される状況ではないと
判断した弘の賢明な決断である。弘も韓一族も武官として優遇された。
宣武の後任は元宰相の張弘靖が入り慰撫した。
七月辛卯,沂海將王弁が觀察使王遂を殺し自立した。
財政官僚である王遂は赴任すると早速厳正に対処し、甘やかされていた將士を酷
使した。兵士王弁は憤激し徒党とともに遂を襲撃して殺した。
七月甲辰,棣州刺史曹華を沂海兗密觀察使にした。
文官では拉致があかないとみて、練達の武官の曹華を派遣し王弁を討たした。
丁酉,河陽節度使令狐楚が宰相となった。
程异が亡くなったため、皇甫鎛が与党を求めた。
九月戊寅,王弁伏誅。
弁は一介の兵士であり到底自立不能と感じていた。唐朝は開州刺史に任じると
騙して、赴任途中に捕まえ誅殺した。
沂州に自軍を率いて入城した曹華は旧鄆州兵1200名を殺害した。
地元の沂州兵は残した。
十月壬戌,安南將楊清が都護李象古を殺して反した。
楊淸は安南人の酋長である。象古は嗣曹王皋の子であり強奪圧政を敷いていた。
唐朝は桂仲武を派遣し、清を瓊州刺史にしたが、王弁の事で唐朝の信用は落ちて
おり、清は威權があったので仲武は入ることができなかった。
十月癸酉,吐蕃寇鹽州。
この頃吐蕃は辺境をしばしば犯した。淄青が片付き、河北を帰順させた憲宗は主
力軍を 西北へ移し、吐蕃を討ち安史の乱で失われた隴右・河西地方の回復を考
えていた。
十二月乙卯,宰相崔羣が左遷される。
裴度派の羣が皇甫鎛に追われた。度と違い使相でもなく觀察使へ左遷である。
淄青が滅び、もはや漕運の重要拠点である汴州の独立が許される状況ではないと
判断した弘の賢明な決断である。弘も韓一族も武官として優遇された。
宣武の後任は元宰相の張弘靖が入り慰撫した。
七月辛卯,沂海將王弁が觀察使王遂を殺し自立した。
財政官僚である王遂は赴任すると早速厳正に対処し、甘やかされていた將士を酷
使した。兵士王弁は憤激し徒党とともに遂を襲撃して殺した。
七月甲辰,棣州刺史曹華を沂海兗密觀察使にした。
文官では拉致があかないとみて、練達の武官の曹華を派遣し王弁を討たした。
丁酉,河陽節度使令狐楚が宰相となった。
程异が亡くなったため、皇甫鎛が与党を求めた。
九月戊寅,王弁伏誅。
弁は一介の兵士であり到底自立不能と感じていた。唐朝は開州刺史に任じると
騙して、赴任途中に捕まえ誅殺した。
沂州に自軍を率いて入城した曹華は旧鄆州兵1200名を殺害した。
地元の沂州兵は残した。
十月壬戌,安南將楊清が都護李象古を殺して反した。
楊淸は安南人の酋長である。象古は嗣曹王皋の子であり強奪圧政を敷いていた。
唐朝は桂仲武を派遣し、清を瓊州刺史にしたが、王弁の事で唐朝の信用は落ちて
おり、清は威權があったので仲武は入ることができなかった。
十月癸酉,吐蕃寇鹽州。
この頃吐蕃は辺境をしばしば犯した。淄青が片付き、河北を帰順させた憲宗は主
力軍を 西北へ移し、吐蕃を討ち安史の乱で失われた隴右・河西地方の回復を考
えていた。
十二月乙卯,宰相崔羣が左遷される。
裴度派の羣が皇甫鎛に追われた。度と違い使相でもなく觀察使へ左遷である。
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