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NPO法人POSSE(ポッセ) blog

映画版『蟹工船』感想 ~自己責任論がつくった労働組合?~

★労働運動を否定する『蟹工船』!?

「被害者面してんじゃねえ!」「人のせいにすんな!」「悪いのは自分だ」「あなたたちも悪い」「劣等感を持つな」

これだけ並べれば、最近の労働・反貧困運動を揶揄する常套句かと思われるだろう。しかしこれはほかでもない、松田龍平主演、SABU監督の映画『蟹工船』のセリフである(うろ覚えですが)。しかもそれは、決して労働組合結成を否定する文脈ではなく、労働者が立ち上がるきっかけとして交わされる言葉である。2009年の映画版『蟹工船』は、自己責任論と労働組合のユニオニズムがギリギリで同居する画期的というか不思議な映画だった。

蟹が降ってきたり、労働者が蟹歩きしたり、労働者全員で集団自決を試みて失敗するなど、笑って良いのか躊躇してしまうシュールでブラックなギャグが続く中、本作の大筋のストーリーは小林多喜二の原作をなぞっていく。蟹缶を製造する蟹工船の中で監督の浅川による過酷すぎる労働の強制と暴力が吹き荒れ、倒れる労働者が続出、誰もが朦朧としながら絶望の中で働き続けていく。やがて物語が後半にさしかかった頃、遭難した主人公たちをロシア人たちが救出してくれるというエピソードが描かれる。原作を読んでいる方はご存じのように、このシーンはロシア人と中国人通訳によって、当時の共産主義のイデオロギー的な教育が労働者たちになされる箇所だ。しかし、雑誌『POSSE』第2号でも指摘していたが、このシーンこそが今の若者からは受けつけられないシーンだと思うのだが…。

だが、その危惧はあっさり裏切られる。救出された松田龍平らは、一向にロシア人と会話を交わす気配がない。しばらくして、ようやく中国人(「アルよ~」とか言ってますが…)らしき通訳と話す機会を得る。しかし、そこで言われるのが、あろうことか「あなたたちも悪い」という批判だ。共産主義どころか、変わるべきなのは社会ではなく、自分たち自身のほうだと言うのだ。彼は怪しい日本語で主人公らを諭す。一人一人が自分で考え、行動すれば状況は変えられる。諦めているからダメなのだ。夢や希望、やりたいことを実現するためには、今の状況を自分で変えなくてはいけない。だからいま立ち上がらなければいけないのだと。ギャグを交えた説得力の感じられないセリフだが、主人公は共鳴する。そして、「いまやりたいことは…踊りてえ!」そう言ってロシア人のコサックダンスに加わり、過酷な労働と貧困によって抑圧されてきた自分の生きる喜びや欲求を開放する。そして彼らは船に戻り、自分たちのやりたいことをやるために、まずいまの現状を打破すべく、立ち上がるのである。

原作ではロシア人に資本主義批判を教わるはずのシーンが、「やりたいことをやるために生きる」という「生」への欲求を目的とした、ある種の自己責任論を教えられる描写へと丸ごときれいに差し替えられているというわけだ。


★自己責任論と労働運動が両立した理由 ~『蟹工船』と現代の違い~

確かに、労働組合の根本的な思想であるユニオニズムとは、特定のイデオロギーとは関係なく、団結することで職場の状況を改善させ、自分たちの生活を守るためのものだ。であれば、そのきっかけが自己責任論だったとしてもおかしくはない。

しかし、観ながら疑問も湧く。「一人一人が行動しろ」っていう自己責任論なら、自分一人だけ競争に勝ち抜いて抜け駆けしたっていいんじゃないか。なぜわざわざ他の労働者と利害関係を一にして闘う必要があるのだろうか。この映画においては、自分自身で考え、行動すること→自分のいる環境を変えること→監督たちとストライキで闘うこと、という図式がストレートに直結してしまう。焦点になるのは、最初の「自分自身で考え…」の地点に立てるか否か、その覚悟だけだ。そこから先はほとんどノリだ。

ただその「ノリ」は、蟹工船という特殊な環境を前提としている部分も少なくないと思われる。実際、『蟹工船』を現代と比較したとき、そのフォーディズム的労働というべきか、現代の特徴的な労働とは異なる点が良く指摘されるが、その多くは本作でも克服されているわけではない。この環境が、集団的に立ち上がるひとつの背景とも言えるのではないか。

例えば鬼監督・浅川の存在だ。こうした憎まれる「絶対的な敵」は現代の職場にどれほどいるだろうか? 職場の「暴力」はより陰湿かつ巧妙に行われ、誰と交渉したらいいのかもわからない、それが現在の労働のイメージではないだろうか。浅川のようにわかりやすい敵がいれば、今と違って団結して闘いやすいだろう。

さらに、閉鎖的な空間で同じ職場の連帯感が生まれるという点。日雇い派遣が最も象徴的な例だが、同じ職場に数ヶ月一緒にいることすらなく、流動的な労働が増えている。派遣先の都合で労働者は全国をあっちこっちに配置転換され、労働者自身も、キツイ職場なら辞めて別のところに移ったりする。そうなると、映画のように同じ苦労を長期間共にするなかで、仲間意識が高揚するというのはなかなか難しいことだろう。

さらには、仕事の中身についても違う。蟹工船の労働は、あくまでも食べていくためのやむを得ない手段であり、自分の夢や希望、生きがいのようなものは別にある。だからこそ、仕事から解放されて踊るコサックダンスが意味をもち、夢を邪魔する今の職場を変えるために立ち上がったわけだ。しかし、現在の若者にとっては、仕事に対して、一人一人の創意工夫が求められるなどして、仕事そのものに「自分のやりたいこと」「やりがい」を抱くようなケースもある。そうした、仕事にアイデンティファイしている若者からすれば、「仕事以外のやりたい夢をやるために、いまの職場で闘え」というロジック、特に映画版のそれは、「望んでやってる仕事だから、つらくてもがんばろう」とむしろ仕事に没頭するための言い訳に容易に転化してしまうのではないか。

ふつう自己責任論は、社会的な力を持った人間への敵対的な意識、同じ労働者における連帯感、そして社会を変える意識というものを失効させてしまうことが多い。しかし、本作ではこうした「蟹工船」のような追いつめられた職場という舞台設定があり、この状況から生き抜くための唯一の方法として、自己責任論とユニオニズムの連携(?)を実現させることができたのではないか。


★自己責任の拡張か、新しい労働運動か ~「社会変革型自己責任論」?~

だが、それにしても本作のユニオニズムは、自己責任の論理と拮抗するギリギリのバランスのうえに成り立っている。セリフも、ほとんど「格差批判とかしてる暇あったら働け」と言っているように聞こえてくる。ともすれば、「貧乏なのは、労働運動をしないお前が悪い」、という自己責任論の拡張にまでなりかねない。
実のところ、製作者の発言を見てみても、階級闘争や労働運動などの主義主張をいまの若者に伝えようとしたわけではなく、むしろ労働運動をメタファーとして、悩んでばかりいないで自分自身で考え、行動しろ、というメッセージを届けようとしていたようだ。

しかし、そうした意図とはある意味全く逆に、そして蟹工船の職場という特殊性をさっぴいても、この映画は多くの若者がもっている日常的な感覚に敢えて介入することで、ユニオニズムを現代の若者に浸透させようとしているように見える。
「自分のやりたいことを実現するために、自分たち一人一人で考え、行動すること」…本作で何度も繰り返されるフレーズだ。誰かに指示されるから動くのではなく、自分の夢や希望を叶えるために、自分の頭で思考し、実践する。それが自分さえ社会に適合して勝ち残ればいい、という抜け駆けではなく、仲間の夢を共に叶えるために労働環境を変えるという連帯につながるのなら、それは労働運動の新しいイメージを切り拓いたと言えるのではないだろうか。それは、「自己責任」でも、口先だけの格差批判でもない。「社会に文句ばっかり言ってないで、社会を変えろ」という言わば「社会変革型自己責任論」とも言うべき問題提起である。とりあえずこの変化球的作品によって、『銭ゲバ』と『ハゲタカ』を支配していた「労働運動シニシズム」の呪縛が突破されたことは喜びたい。(坂倉)→映画版『ハゲタカ』感想

※『蟹工船』ブームについては、『POSSE vol.2』でも特集しています。
若者の視点から、新しい労働運動の観点から蟹工船ブームはどう考えられるのか
? ぜひご覧下さい。お求めはこちらから。→雑誌『POSSE』注文ページ

○主な収録原稿
■対談「ナショナリズムが答えなのか ~承認と暴力のポリティクス~」
  高橋哲哉(東京大学教授)×萱野稔人(津田塾大学准教授)
■「プロレタリア文学の「手紙」が世界に舞う」
  楜沢健(文芸批評家)
■「「現代の蟹工船」から脱出するために」
  雨宮処凛(作家)×土屋トカチ(映画監督)
■「国会議員に聞く!『蟹工船』ブームの真実」
  小池晃(日本共産党参議院議員)/亀井亜紀子(国民新党参議院議員)
■「若者と『蟹工船』のリアリティ ~ブームを普遍性にするには~ 」
  『POSSE』編集部 
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