ローマの占星術
紀元前250年頃になると、ローマの人々は、特に平民たちを中心に占星術に惹かれるようになった。謝礼金の額について、占星術師は、人々が「天を出し抜く」ことを許そうとした。しかし、ローマの保守層は、バッカス神話やキリスト教やカルデアの占星術などの東方の信仰がローマ社会に入ってくるのを押しとどめようとした。ローマの詩人エンニウス(紀元前239年-169年)は「星を眺めている人たち」を次のようにからかった:
迷信深い放浪詩人の予言するいかさま師は働くことを嫌い、分別を欠き、欲望の虜となって、他者にはいかに歩むべきかを垂れても、自らの歩むべき道を知らずして、彼らが富を約束した者に金を乞う。当然のごとく謝礼金を取り、収支を合わそうとする。
動物の名前がついた星座は面白おかしく「木星の動物たち」と呼ばれていた。
彼は天でどんなことが起っているか、占星術的な兆候を見つめている。いつ、ヤギやサソリや他の木星の動物たちが上昇してくるかと。しかし、自らの足下にどんなものがあるか、だれも気をつけようとしない。彼らは、恍惚として、天を眺める。
紀元前170年~140年頃、ギリシャの哲学者が何人か、ローマを訪れている。ロードスのパネティウスPanaetiusや天文学者シラックスScylaxが占星術に異議を唱えていたが、彼らは未来を予言するというカルデア人の方法に反対した。カルネアデス(紀元前214-129年)は能弁家としての才能故に反占星術の集団に熱狂的に受け入れられていたが、彼もカルデア人の占星術に次の点を指摘してこれを否定した。
(1) 誕生(あるいは受胎)時に天を正確に観察することは不可能。
(2) 同じ星座の下に同じ時刻に生まれた人でも運命が異なる。
(3) 誕生した星座も時刻も違うのに、同じ時刻に死ぬ人がいる。
(4) 動物もまた、同じ時刻に生まれた人間と同じ運命に支配されてしかるべきだ。
(5) 同じ星座で同じ時刻に生まれたかどうかによらず、人種や習慣や信条は多岐にわたっている。これは占星術の教義と相いれない。
ローマへ占い師が流入してきて様々な問題が発生したため、占星術師を追放する布告(紀元前139年のプラエトルの布告)が出された。その国外退去命令の布告には、次のような2つの大きな害悪が書かれていた。
(1)占いの手段としての占星術の虚偽性、および
(2)この似非科学を信奉する者がだまされやすい人々から金を搾取すること。
その布告はきちんと執行されたわけではなく、紀元前100年頃まで、占星術師は貧困な自由民や奴隷を訪ねていた。ポシドニウスPoseidoniusには協力者がいて、この人は紀元前87年にローマへ行った。もう一人の支持者はプブリウス・ニギディウス・フィグルスPublius Nigidius Figulus(紀元前99-44)で、彼は元老院議員であり、占星術師であった。それとは対照的に、雄弁家であり、弁護士、ローマ共和国の領事、そして著作家でもあったマルカス・トゥリウス・キケロ(紀元前106-43)は占星術をひどく嫌った。キケロの作品に「占いについて」という本がある。「私が言いたいのは、先を読むことなどできないということだ」という概説から始め、そしてカルネアデスから借りて、次のように述べた。
(1)同じ星座に生まれても、双子の運命は異なる。
(2)天体を観察するには星占い師に目視能力が必要とされるが、これは誤りを起こし易い。
(3)宿命論の占星術の教義とは違い、同じ星座に生まれた人がみな同じ運命を持っているとは限らない。
(4)星々が赤子に影響を与えるなら、風や天候だって影響を及ぼすはずだ。つまり、星だけではないはずだ。
(5)「親の種」も長じてからの容姿や癖、才能、子どもの見かけに重要な要因である。つまり、星だけでそのような特性を決定することはできない。
(6)その人自身の努力や医学の力によって、生まれ持った「自然の欠陥」が治ることがある。
(7)環境や地域の伝統によって、同じ星座に生まれたかどうかに関わらず、人は違ってくる。
(8)占星術の主張を科学的に立証しようと昔の観測が持ち出されるが、その日付は信用できない。
ローマにおける占星術の受容
紀元14年から37年までのローマ皇帝であったティベリウスに、友人であり、アレキサンドリアの学者であり、相談相手である占星術師スラシルスThrasyllusがいた。彼は紀元2年にローマにやって来て、その後ロードスに移り住んだ。古代ローマの詩人マルカス・マニリウス(紀元10年ごろ)は、ペンネームで呼ばれていたようだが、このスラシルスThrasyllusの影響を受けた。マニリウスが書いた「アストロノミカ」Astronomicaは未完に終わった占星術の詩で、そのうち5巻が残存している。1936年、英国の古典学者A.ハウスマンが翻訳したが、どうも彼にはほとんど判読できなかったようだ。それは私(スチュワートのこと)も同じだった。シドンのドロテウスDorotheus(西暦20年頃)はエジプト人だった可能性がある人で、アラビア占星術の権威者である。ペンタテウフPentateuch((Πεντετεύχως)(五書)と呼ばれる作品の断片が時々見つかっている。
紀元前33年に続いて西暦11年、占星術師はローマから追放された。紀元前44年にユリウス・カエサルが死んでから西暦180年にマルクス・アウレリウスが即位するまでの間に、そのような国外退去命令が何件か記録されている。
宮廷に占星術師が登場した。バビルスBabillusはローマ皇帝ネロ(西暦37年-68年)の占星術を使う顧問役だった。ローマ皇帝オト(西暦69年)のひいきの占星術師はプトレマイオス・セレウコスだった。もう一人は西暦1世紀のバビロニアのテウクルスTeucrusで、この人はデカン(後期エジプトに起源があり、占星術で使う30度幅の宮を3分割したもの。それぞれ10度に区切られたこのデカンはホロスコープ占星術では大きな役割を果たすと考えられていた)を重要視し、アラビアの占星術に影響を与えた。
117年から138年までのローマ皇帝であったハドリアヌスは自分自身も星占いをやっていた。彼のホロスコープ占いはテーベの占星術師ヘファイスティオンHephaestionによって取り上げられた。この人は4世紀に他の人たちと協力して、ニカイアNicaeの占星術師であり医師であるアンティゴノスによってまとめられたコレクションの中からこれを見つけた。アレキサンドリアの大学にプトレマイオスを招聘したのはハドリアヌスの計らいだったと多くの人々が考えている。
2世紀後半になると、ローマの散文家セクストゥス・エンピリクス(200年頃)が占星術に対する総合的な論文を書いた。その一説を紹介しておこう。
もし神がいなければ、占いは存在しない。それは、これが神から人間に与えられたしるしを観察し、解釈する術(すべ)だからである。神聖なお告げによる予言や星による予言などありえなし、内臓の見ての、あるいは夢から導かれる予言などもありえない。
最後の重要な古代ローマの占星術の著作はマテシス『Mathesis』で、法律家フィルミカス・マテルナスFirmicus Maternus(西暦337年頃)が書いた占星術のハンドブックだった。伝統に反して、彼は次のように書いている。
また、占星術師は皇帝の運命に関して真実を何一つ見い出すことができなかった。皇帝だけは星の運行に影響されないからで、皇帝に対してだけは星が運命を決定できる力が及ばない。
ローマの占星術まとめ
ローマ人は外国人をしばしば放逐したことからはっきり分かるように、カルデア人やギリシャ人の文化や、後になればキリスト教のような外部からの影響に対して最初は用心深かった。だが、ヘレニズム文化に対する崇敬の念があったから、徐々にそうした外国の思想が足場を得ていった。プトレマイオスの時代(150年頃)、エジプトは1世紀以上ローマの属国となっていた。ローマが占星術を受け入れたのはエジプトで(特にアレキサンドリアで)ヘレニズム的な占星術が行われていた影響が及んだからであった。
福島憲人・有吉かおり