占星術への道-誕生史、星見の作法

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・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<21> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術/エジプト

2021-03-15 09:27:55 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

ヘレニズム文化のエジプト

 アレキサンドリアは地中海に面したエジプト随一の港町で、紀元前331年、アレクサンドロス大王がペルシア帝国から奪い取って開港した。アレクサンドロス大王のマケドニアの将軍であったプトレマイオス(プトレマイオス1世、あるいはプトレマイオス・ソテルSoter)の下で、アレキサンドリアはヘレニズム風の都市の中では名の知れた成功した町となった。大きな大学と図書館が置かれ、その大学は古代世界で最も有名な学術機関になった。ミュージアム(ムセイオン)という名の文芸センターが文芸や芸術の神であるミューズに捧げられた。アリストテレスが興したリュケイオンの精神は徐々にアテネからアレキサンドリアへ移って行った。

 アレキサンドリアでは有名な学者が次々と現われた。紀元前300年のストラトStratoとユークリッドから始まり、その後、アルキメデス(紀元前250年頃)、エラトステネス(紀元前250年頃)、サモスのアリスタルコス(紀元前240年頃)、アポロニオス(紀元前200年頃)、サモスラスのアリスタルコス(紀元前170年頃)、ヒッパルコス(およそ紀元前150)と続いた。ユダヤの旧約聖書をギリシャ語へ翻訳した最古の版である七十人訳聖書(セプトゥアギンタ、紀元前250年頃)はアレキサンドリアで書かれている。ヘレニズム文化圏の多くの国々から学者たちが図書館やミュージアムに招聘された。

 アレキサンドリアのミュージアムには200,000~700,000冊の本が収蔵されていた。それは木製のダボにパピルスを巻いたもので、長さは約10インチ、直径が数インチから1フィート、そして巻物を広げると約20~35フィートほどあった。

 アレキサンドリアの住民、宗教、文化はそれぞれエジプト、マケドニア、ペルシャ、シリア、ユダヤ、カルデア、ギリシャおよびローマのものが混在していた。共通語はコイネーというギリシャの方言だった。約30の宗派があった。キリスト教とゾロアスターの考えが混合したグノーシス主義は、精神上の概念を知ることと自己観照の重要性を強調した。セラピスはギリシャ市民の守護神を祭った寺院であった。イシスは、紀元前4世紀に国外追放されたエジプト人によってギリシャに持ち込まれたエジプトの女神だった。ミトラ教はインド-ペルシアの太陽神ミトラを崇拝する宗派で、紀元前二世紀、ヘレニズム文化圏に紹介された。ヤハウェ教徒は唯一の神としてヤハウェを信じていたユダヤ人であった。

 ヘロデ大王の死(紀元前4年)の直前に、アレキサンドリアから300マイル離れたエルサレム近くの小さな村で、ナザレのイエスは生まれた。東方の三博士(マギ)が明るい星をたよりにベスレヘムにやって来た、と語り伝えられている。その話が真実なら、彼らは多分ペルシアの占星術師だったのだろう。アレキサンドリアがローマの属国となった西暦30年に、イエスはローマ人によって磔にされた。西暦100年、アレキサンドリアではキリスト教はまだ目立たないものの、明らかに大きくなっていった。

 ローマ帝国が徐々に衰退して行く中で、アレキサンドリアは文化的活動の中心としてその立場を堅持していた。キリスト教はストア派の人たちの支援を受け、3世紀なると繁栄を迎えた。アレキサンドリアは衰退し始め、そして紀元646年、アラビア人に征服された。アラビア人は、ユークリッド、アリストテレス、プトレマイオス等々の多くの著作を保存し、それらをアラビア語に翻訳していった。数世紀の間、世界最先端の科学資料を所有していたのはアラビア人だけであった。

 アレキサンドリアが紀元1世紀後半に衰退を始めるとともに、2世紀もの間栄えていた科学革命の時代も(たとえばユークリッド、ヒッパルコス・アルキメデスなど)終焉を迎えた。テトラビブロス『Tetrabiblos』を翻訳したロビンズは、「紀元2世紀になると、占星術の勝利は完全なものとなった。ほとんど例外なく、皇帝から最も身分の低い奴隷まで、全てが占星術を信じ、そしてニューアカデミーの批判精神は風化してしまい、占星術は強大なストア派によって保護された」と指摘する。プトレマイオスベッティウス・バレンスが出現したのはこの時期だった。


ベッティウス・バレンス

 ベッティウス・バレンス(西暦160年頃)は最も著名なギリシャの占星術師のうちの1人であり、プトレマイオスと同時代の人だった。プトレマイオス同様、彼の一生についてはほとんど何もわかっていない。彼が占星術師養成のための学校を経営していたことは間違いない。ほとんどの仕事はアレキサンドリアで行なわれていた(ホロスコープの時間と場所で確認されているし、また過去に遡って確認されているものもある)。

 バレンスによれば、各惑星には魂における役割が割り当てられているとされる。彼は著作「アンソロジー」の中で、西暦140年から170年にわたるホロスコープを引き合いに出して占星術の理論を説明している。「アンソロジー」は「敵対する場所と星々について」、「クリトデムスCritodemusの第1表による危険な場所について」、「非業の死について、事例つき」、「有名で優れた出生の例と不遇で身分の低い出生の例」、「厄年について、クリトデムスによる月から始める方法とは異って」など、9巻から成っている。

 バレンスは、プトレマイオスの影響を受けていないと言っている。「私は、太陽にはヒッパルコスを、月にはスデネスヒッパルコスそしてキデナスを、さらに太陽と月の両方にアポロニオスの手法を使うことにした。」(アポロニオスというのは、おそらく1世紀頃の天文学者/占星術師であったアポリナリウスのことと思われる。キデナスキッディヌまたはシデナスの別名である。図37、38および39を参照のこと。)

 今日、ギリシャあるいはヘレニズム期のホロスコープは全部で180残っているが、そのうちの130はバレンスが書いたもので、「アンソロジー」の中に入っている。ノイゲバウアは次のように述べている。「ベッティウス・バァレンスの著作がなかったら、西暦380年以前のホロスコープとしてはわずか5例しか手に入らなかったはずだ」と。バレンスと同時代の占星術師としては、バレンスより50歳年上のニカイアのアンティゴナス(西暦138年頃)とクリトデムスがおり、バレンスは「アンソロジー」中でしばしば彼らのことに言及している。しかし、クリトデムスの人となりについては何もわかっていない。


 

敵対する場所と星々について

 敵対する場所と星々を調査するに当たっては、諸惑星に関してだけではなく、ホロスコープ点や太陽や月についても調査する必要がある。それゆえに、また、それらが運行中に対蹠点diameterに入って来る時刻は危機と死を暗示している。だから、土星の場合ならば、表に示されているように、どの神がその支配宮termに属しているか、対蹠点diameterでの角度を調べなければならない。そして、土星がその場所に来た時、もしくはホロスコープ点とスクエア(90度、矩)にある時、あるいは上昇時刻が同じ場所にある時、ホロスコープ点とスクエア(90度)にある時刻と上昇時刻が同じ場所のその時刻の組み合わせによっては、その人は死ぬだろう。これと同じことをさらに他の星に対してもしなければならない。なぜなら、全く正反対のdecreesの支配宮terms の支配星rulersは敵対しているからだ。もし、惑星がその場所(対蹠点-支配宮diameter-terms にある 支配星rulers の)へ来るか、あるいは上昇時間が同じ場所にあれば、それは破壊を意味している。

 ここで、土星が巨蟹宮21度、金星の支配宮、にあるとしよう。対蹠点は白羊宮(21度)で、それは火星の支配宮であり、火星は金牛宮の27度にあった。この時、土星がそこにあれば、彼は死ぬだろう。土星が処女宮にあった時、角度を見るとそこはスクエア(90度)になるから、彼は死んだ。

 木星が天蠍宮の14度、土星の支配宮にある。金牛宮の14度は土星の支配宮に入っている。しかし、それは自分に敵対することはない。今、獅子宮は天蠍宮と上昇時間が同じで、獅子宮の14度は太陽の支配宮に入っている。したがって、木星が太陽の場所に来たら自滅する。

 火星が金牛宮の27度、太陽の支配宮にある。天蠍宮の同じ角度の場所は太陽の支配宮である。しかし、それは自分に敵対することはない。したがって、獅子宮27度か、同じ上昇時刻の(星座、サイン)の27度、それは時刻の差によって宝瓶宮になるが、これを調べなければならない。しかし、宝瓶宮の27(度)は金星の支配宮である。したがって、火星が天蠍宮、あるいは双魚宮にある時、彼は死ぬだろう。それは上昇時刻が同じか、スクエアの関係にあるからだ。獅子宮27度を見てみれば、土星の支配宮であることがわかるだろう。土星は巨蟹宮にあった。だから、火星が巨蟹宮あるいは人馬宮、またはスクエアになった時、彼は死ぬであろう。

 天蠍宮27度、太陽の支配宮に金星がある。対蹠点にある金牛宮の27度は太陽の支配宮である。しかし、それは自分に敵対することはない。したがって、私は、天蠍宮、27(度)と、同じ上昇時刻の(星座、サイン)を調べる。すると、それらは水星の支配宮にある。水星があった処女宮に金星があったら、あるいはスクエアになっていたら、彼は死ぬだろう。同じことを水星についてもやるべきである。

 さらに、病気については、真反対の場所と、どんな惑星が敵対する場所にあるか、そして毎月、毎日、そして毎時間の危機を引き起こしているのはどの星か、それを月に向いている星から月までの角度によって調べることが必要だ。

 その後、出生時の星座(サイン)と角度によって偶然居合わせた他の(星)に従って、太陽、月、そしてホロスコープ点から始点(スタータ)が決定されるだろうし、さもなくば、ホロスコープ点などの後に見つかる星から決定されるだろう。そして、10年9か月の周期ごとに決定するようにするのである。


図37:Vettiusヴァレンス(西暦紀元150年頃)による占星術の資料。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン、 「ギリシャの星占い」アメリカ哲学協会(1959年))から。

 


 太陽と土星は白羊宮に、月は天蠍宮に、木星は獅子宮に、火星は双魚宮に、金星(と)水星は宝瓶宮に、ホロスコープ点Horoscoposは処女宮に、ロット・オブ・フォーチュン運勢点the Lot of Fortuneは天蠍宮に、霊魂点(ダエモンthe Daimon) は巨蟹宮にある。そこで、知的で精神的なものを予言する霊魂点に対蹠するように真反対の位置にあるのが土星で、(マーク巨蟹宮中の)(前)満月ならびにその時の位相に対して支配的なアスペクト(星相)の位置にあった。そして、運勢点the Lot of Fortuneの支配星(火星のマーク)はホロスコープ点に対して対蹠する真反対の位置にあった。こうして、この人物は運命で定められた場所において、傷つき、足を痛め、とりわけ精神に異常をきたした。


図38:ベッティウス・バレンスのホロスコープ(紀元106年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン(ギリシャの星占い)から。アメリカ哲学協会(1959年)。

 


 太陽が宝瓶宮に、月が処女宮に、土星が金牛宮に、木星(と)ホロスコープ点が双児宮にあった。火星は巨蟹宮に、金星は双魚宮に、水星は白羊宮に、運勢点は白羊宮に、霊魂点ダエモンは天蠍宮にあった。これらに対し、害悪をもたらす(星の火星の記号と土星の記号)は対蹠点にあった。この人物は軟弱で、口にできない欠陥を持っていた。それは、白羊宮は淫らで、支配星(土星)が金牛宮にあり、そのサイン(宮)は虚弱であることを示し、天蠍宮は淫乱の相を示しているからである。


図39: ベッティウス・バレンスのホロスコープ(紀元116年)。オットー・ノイゲバウアおよびH.バン・ホーセン(ギリシャの星占い)から。アメリカ哲学協会(1959年)。

    福島憲人・有吉かおり



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