ひとやすみ(風のいろ:別館)

あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました(ヨナ)
闇の中に座っていても主がわたしの光である(ミカ)

信徒が 神を礼拝するとき

2006年08月11日 | Faith
ウォッチマン・ニーさんの『荒野の食卓』より
           (MLにUPされたものを コピペしました)

                         8月11日

     彼らは、主がイスラエル人を顧み、
     その苦しみをご覧になったことを聞いて、
     ひざまずいて礼拝した。
                     出エジプト記 4.31


・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・

神は私たちを試みの中に忘れ去り、私たちを私たち自身の持てる力に委ねてしまわれたと考えるなら、私たちは神を礼拝することができないような気がします。
私たちは病気で、癒されることを待ち望んできました。私たちは何ヵ月も失業していて、まだ仕事が見つかりません。私たちの家庭の問題は果てしなく続くように思われます(430年には届かないにしても)。

これらの圧迫は、私たちのあらゆる祈りにもかかわらず、主を信じることの妨げとなります。このしつこく苦しめる昔からの状況は変わりません。どうすれば主を礼拝できるのでしょうか。

私たちの唇は黙らされています--私たちが見るまでは。神の方法を知る日がやって来ます。そのときたちどころに神は私たちを忘れておられなかったことを知るのです。その日、閉じられた唇は開かせられ、憤懣やる方なかった頭はひれ伏します。私たちはあらゆる事において神の恵みを受け取ったことがわかり、神の方法を讃えるのです。



      ☆         ☆         ☆



この文章を読んだ時、「私達が神の方法を知るとき」「私達が見るとき」とは、御国に行ったときのことかと思いました。しかしもう一度読んで、この世の歩みの中で それは起こるのだと知りました。でも 例えば私のように鈍く信仰うすい者は やはりこの世にいる間は 心からの礼拝を捧げられないのかもしれないと思いました。
kazenoiro

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1 コメント

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今一度 あらためて (kazenoiro)
2021-08-08 02:58:25
夜更かししています。明日礼拝(on-lineだけど)なのに。
gooから「一年前の記事」のお知らせが来て。
その記事の下の方に 「このblogの人気記事」を辿り
更にその前日、その前日、その前日…でここに来ました。

昔の記事なのに 今も同じ所にいるかもで
気持ちを新たにさせられました。感謝です。
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