ひとやすみ(風のいろ:別館)

あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました(ヨナ)
闇の中に座っていても主がわたしの光である(ミカ)

「私の居場所は、どこにありますか?」  ☆よっちゃんメッセージ☆

2006年08月20日 | Faith
よっちゃん兄メッセージ  2006年8月20日 大阪 (風のいろ的抜粋です)
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創世記 21章

その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。


         ☆       ☆       ☆

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創世記 21章 8-19節まで、少し 長い箇所を読んでもらいました。 きょうは、私の居場所はどこにありますか?と 言うテーマで 御言葉にしばらくの時 耳を澄ます事ができればと願っています。
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 創世記の中でも、このハガルの箇所は中盤のクライマックスではないかと思うほど、いつも淡々と記す聖書の中で、ドラマチックに書かれているように思います。 
 アブラハム家の問題は、でも 不妊のサラがとうとう、子を産んで ご本家の子供ができるに及んで子供同士の問題になります。  ハガルを追い出せとサラに迫られて アブラハムは 悩むのですが、アブラハムは祈って主に尋ね、とうとうハガルを追い出してしまう。  それが、さっき読んでもらった、ハガルの砂漠の逃避行になるのですね。 
  
 ハガルには、アブラハムの家に居場所がありませんでした。 荒れ野をさすらっていました。、 皮袋にもう水がありませんでした。 
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 きょうのテーマを選んだのは、最近、多くの交わりの中で、この地上にあって、苦しみや痛みが多くて、本当に、ほっとする居場所は、キリスト者にあるのだろうか。 そう言う問いかけを 本当に、多く耳にします。  ハガルは、人間関係で悩みました。アブラハム家に、ハガルの居場所はありませんでした。一時は、女奴隷から、跡継ぎの母親に と、思えた境遇も、今は、ハガルもイシュマエルも邪魔者でした。  彼女の目には、砂漠があって、水のない皮袋でした。  
わたしたちの 今 居る場は、どうでしょうか。  会社、家族、仲間、友人、、。その中に みなさんは 自分の居場所はあるのでしょうか。 

 わたしたちキリスト者はヨハネの14章でイエス様は確かに 天の御国で居場所を 備えに行くと約束されました。 (ヨハネ14章1節)・・・・・・・・・・・
 それは、やがてイエス様が迎えに来て くださる再臨の時に約束された居場所で、わたしたちには、この地上で は痛みや苦しみのみがあって、本当に ほっとする居場所はないのでしょうか。  旅人であり奇留者であるとは、どういう意味なのでしょうか。 

 キリスト者が キリスト者として歩むなら、この地上では、この世の価値観と全く違う所に位置しているわけですから、本流から離れてしまう事は間違いないと思うのです。わたしたちにとって、この地上は痛みや悩みや病気や 苦しみの中で、痛んで叫ぶだけの場所なのでしょうか。 
 
  ある時、ある兄弟が、クリスチャンのこの世の歩みについて、こんなふうに 語られた事がありました。  エレベーターに乗る時。 もう一杯の・・・・人たちが乗ってしま っている。わたしの居場所がない・・・・。 でも、 神様は、不思議にちゃんと、あともう一人、私が 乗れる 隙間を用意して くださっている。 乗ったら、ビーーと ブサーが鳴って、・・・・・・・そ思ってしまうけど、 歩み出して 乗ってみたら、・・・・・・不思議と私の乗る 私の隙間を用意してくださっている。  キリスト者のこの世の居場所って、そのような感じではないだろうかと語ら れて、すごく印象に残りました。

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わたしたちもこの世の中で、居場所がないように見えて、小さくささやかか もしれないけど、天の御国の約束のお部屋を予兆するような、ほっとする 居場所を神様が与えていてくださってるのではないでしょうか。 

 そこを見いだす事ができていたら、たくさんの問題や、悩みや苦しみに出会う時も私たちは、その居場所 隠れ場で、神様にかくまっていただいて支えられることができるのではないでしょうか。 
 
・・・・・・・・・JRがミステリー列車と 言って、行き先のわからない発車駅での 出発時間と到着時間だけがお客さん に告げられるような列車が運行されますが、私たちのこの地上での旅もそれに 似ていると思います。 主に信頼して、わたしたちは、この地上で 明日がわからないですけれども、 旅をしています。

    私たちにとって、明日は、どうなるか、さっぱりわかりません。 ただ、
ひとつの事だけが、私たちにわかる。  それは、明日も イエス様が 私を支
えられる。  この信仰に立てたらどんなに楽でしょう。 

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 わたしたちは、ちょっとした事で、沈んで 不安に襲われてしまいます。 わたしたちもすぐに痛み沈んでしまいます。どんなに喜んで 今晩 満たされても、明日の 朝、一本の心配な電話で、誰かのひとことで、何かのトラブルで、すぐに谷底に落ちてしまうものです。
 
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 詩篇39:12
 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、
黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。
 
 
 この一節の中には、ほんとうに たくさんの うめきがありますが、ようく読むと、このうめきの 中に たくさんの 祈りと告白がこめられていあす。 主は、叫びを聞いてくださる主であること。 涙に黙っていない主であること。
 
 詩篇56篇8節
 あなたは 私のさすらいを知っておられます。
 どうか、私の涙をあなたの革袋にたくわえてください。
 
 
 ここでは「旅人」と言う表現ではなくて「さすらい」と言う表現で出てきます。そして、主が、私たちの涙のひとつひとつを決して見捨てられずに、それを 革袋にたくわえ覚えていてくださる。  
 
 
 イザヤ25章4節
 あなたは弱っている者のとりで、
 貧しい者の悩みのときのとりで、
 あらしのときの避け所
 暑さを避ける陰となられたからです。
 
 
 ほんとうに御言葉に信頼する事ができたら、どんどん、楽になれるように思う
・・・・・・・・・。 わたしたちは、弱り、貧しく、悩む者として、この地上を歩みます。 
 
 あらしと 暑さと 悩みに満ちています。
 けれども 主は、
 弱った者をかくまうとりでとなり、
 暑さを避ける陰となる。
 

 
 あと、もう一カ所 大好きな箇所です。
 
 イザヤ58章11節/
 
   主は絶えずあなたを導いて
   焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、
   あなたの骨を強くする。
   
   あなたは、潤された園のようになり、
   水のかれない源のようになる。 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 現実とは、なんでしょうか。 私たちは、目で見て、この耳で聞いて、この手で触る。 それが、間違いない現実だと認識します。 でも、その現実は、本当に 見えている 現実でしょうか。本当に 確かなものでしょうか。   
 
 創世記21章で、とても不思議なのは、ハガルの見ていた現実です。  ハガルの目に映っていたのは、完全な絶望的状態だったと思うんです。そこは砂漠でした。 唯一のたよりは、革袋の水でした。その革袋の水も尽きました。  もう死ぬしかない。自分の子が苦しむのを見たくない。彼女は 矢の届くほど離れた距離で 子供と 自分が 死んでいくのを泣きながら待つしかない。それが ハガルの目の見た現実だったんです。 
 
 でも、本当の現実はどうだったでしょうか。
 創世記 21章19節
 
 ハガルは、悲しみにうめきながら、すぐ そばに、革袋に何回でも何回でも水を満たして 余りある井戸が すぐ近くにあるのに 全く気がつかなかった。 ハガルが 現実と思って いた絶望は、現実ではなかった。    そこに神様が 井戸を用意して待っていてくださったのに、ハガルは全く気がつかなかった。   
 
  この事は、最初のエレベーターのエピソードにも似ています。わたしの入る居場所はない と、それが現実だ。こんな厳しい現実に私は立たされていますと私は語りますが、 それは現実ではない。 ちゃんと神様は、わたし一人の 隙間 隠れ場 居場所を この地上 にあって、用意してくださっている。 それこそが、現実である。  アブラハムにも、小さなお墓の ささやかな所有地がありました。 
 
  わたしたちに主が用意してくださる それぞれの居場所は、そんなに華やかな広いものでは ないような気がします。 もし、この地上で、あんまり居心地良かったら、ちょっと問題かもしれません。  また、わたしたちは 病気や、悩みや、たくさんの問題の中に置かれて それが 解決できない 所にあるかもしれません。   わたしたちには、主の恵みの 本当の現実が見えずに、五感で感じるだけの絶望や失望の 現実だけが迫るかもしれません。  そのとき、主を見つめ続ける事ができれば、なんと幸いでしょう。 

 居場所がないと言えば、体の病いは、目で見えるのですけど、心の病は目で見えない。 時々、心を病んでいる兄弟姉妹が、健常者と言うか( まー 主の目の前に 健常者 なんて、本当は存在しないと思うのですが) 自称・健康な兄弟姉妹から、厳しいこと を言われて落ち込んでしまう。  で、健常者の人々は、すぐに、その病いが治って社会復帰をはたせて、そこに 主のご栄光があらわされるみたいになってしまう。 で、お医者さんにかかったり、 薬を飲んでいたり、社会復帰をはたせないと、ますます肩身が狭くて居場所がなくな ってします。で、自分はダメだ、ダメが攻撃をしてしまう。 
 
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わたしは、18歳の時にイエス様を受け入れて、35年近くたちました。・・・・・・・ひとつだけ わかって良かったなーと思う事がります。 すばらしいと思った人がずっこけたり、 ここに愛があると思った群れが裁きあいになったり、この人に着いていきたいと思った 先輩が 信仰から迷子になったり。   そんな中で、 自分も ぼろぼろ だけど、 みんなも ぼろぼろ じゃないと 気がつかせて頂いたとき、すごく楽になりました。 
 
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                 ○
                 
 ハガルは、主の用意してくださった井戸のそばで、「 居場所がない 居場所がない」 と叫んでいました。 大声で主の前に叫んだとき、主の前に泣けたときに、そこに居場所 がある事に気がつきました。 
 
 イエス様は、もう頑張らなくていい。 わたしの所に来なさい。 ぼろぼろでいいとおっしゃってくださっています。
 
 わたしたちは、自分の目で表面的な現実を見て、勝手に失望して絶望してしまいます。 その自分の目で見ているものが、一番、確かなものだと理解してしまいます。 でも、 わたしたちが、これこそ間違いない現実だと思い込んでいる状況は、それは、自分の心配と思い煩い で作り出した現実かもしれない。 
 
  ハガルの本当の現実は、 彼女は、 いつでも、何杯でも 自分の皮袋に水を満たして おつりがいっぱいあるほどの 井戸の すぐ近くにいました。  でも、それに全く気がつきませんでした。神様の語りかけを聞いたときに、 ハガルの目は開かれて、ほんとうの神様の恵みの現実の中に立たされました。 
  
 最後に 詩篇から 五箇所読んで 終わります。
 
 詩篇 30:5
 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
 
 
 詩篇 39:12
 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。
 
 
 詩篇56:8
 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
 
 詩篇84:6
 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
 
 詩篇116:8
 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。
 



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