昭和の想い出ーその11
『家族会議と香港映画と』前編
※真ん中で斜に構えて変な顔してんのが僕です。
家の近所の、階段を付けてもらった下高井戸八幡神社の近くにあった下高井戸幼稚園の抽選にもれた僕は、上水公園に迎えが来るバスに乗って、高井戸幼稚園に通っていました。
小学校は高井戸第三小学校で、中学校は向陽中学校へ行きました。
FIELD OF VIEW の浅岡雄也君とは、誕生日が2日違いでクラスメイトでした。
何年か前に中学の同窓会で再開した時は、皆でカラオケに行って歌ってもらいました
中学の学園祭でバンドのボーカルしたのが、歌手になるキッカケだったみたいです。
良い歌歌っているので、良かったら聴いてみてください。
そして高校へ進学するんですけど、僕は「中学を卒業したら香港に移住したい」
と、訳の分からないことを言い出して家族会議が開かれました。
ジャッキーチェンのようなアクションスターに成りたいと思ってしまったんですね。
『プロジェクトA』が公開されたあたりで、僕は当時ジャッキーチェンが好きで、アクションスターに憧れていました。
ジャッキーチェンは、香港にある“ゴールデンハーベスト”っていう会社と契約していて、香港には他に“ショーブラザース”っていう製作会社もありました。
ブルースリーの作品『ドラゴン危機一髪』 『ドラゴン怒りの鉄拳』は、ゴールデンハーベストとの契約作品で、当時の香港映画興行収益記録を塗り替える大ヒットとなったんですね~
ちなみに、ジャッキーチェンは無名時代、
ブルース・リーの映画『
ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)で、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでリーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『
燃えよドラゴン』(1973年)ではリーに首を折られるエキストラ役としても出演していました。
ある日の撮影後、ブルースリーはジャッキーチェンをボウリングに誘ったそうです。
ストライクを連発するジャッキーチェンを、微笑みながら遠い眼差しで見つめていたと、何かのインタビューでジャッキーチェンが語っていました。
ジャッキーチェンはプロボーラーを目指そうかと思う時期があったほどボーリングが上手かったんですって。
ブルースリーは、ジャッキーチェンに何かを感じていたのかもしれませんね。
余談ですが、
香港映画界には脚本がないんですって。
パクリ防止の為らしいです。
撮影当日に、その日に撮影する台本だけ渡されるという。。。。
ヤルナおぬし
あと、香港映画は撮影と音声は同時録音されておらず、役者とは別の声優さんがアテレコをしています。
理由は技術的な問題ではなくて、声優さんの仕事を守るためらしいです。
だから、ジャッキーチェンの昔の作品は、声優さんや言語(広東語と北京語)が違ってたりしてました。
後から効果音も入れるので、手を振っただけで
“ヴォヴォヴォ”とか大げさな効果音を使っていたのも、当時の香港映画の味でした
『燃えよドラゴン』と『死亡遊戯』
ブルースリーってほんと数奇な運命を辿った人だと思います。
『燃えよドラゴン』が公開されて世界中でヒットして、ブルースリーの名前を広めた時には既に旅立っていたのですから。
燃えよドラゴンの冒頭では、総合格闘技の原点とも言われるシーンがありました。
オープンフィンガーグローブを付けて、パンツ一丁で戦うのですが、時代の先をいっていたんですね。1972年頃にそんなことを考えていて映像として遺していたんですから。
※この後バク宙でオハラ(右の人)を蹴り上げるのですが、バク宙しているのはユン・ピョウ
燃えよドラゴンの撮影前に、一部撮影されていたシーンを活かして代役を立てたりして公開されたのが『死亡遊戯』です。
ブルース・リーが
1972年秋にクライマックスのアクション・シーンのみを撮影後中断、急逝により未完となってしまいました。
その後、2000年には映画死亡遊戯でカットされてしまったシーンを使ったセミドキュメンタリー映画『Bruce Lee in G.O.D 死亡的遊戯』も公開されました。
ラストの『死のゲームは死ぬまで終わらない』の声が少しゾゾっとしました。
ブルースリーの後釜
ブルースリー亡きあとの香港映画界を盛り上げるべく、『怒りの鉄拳』と『危機一髪』を監督したロー・ウェイ監督が白羽の矢を立てたのがジャッキーチェンでした。
ブルースリーの死後、低迷していた香港映画界の波を受け挫折して、オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いていたジャッキーチェンに声をかけて、香港に呼び戻します。
自身のヒット作『怒りの鉄拳』の続編を、若き日のジャッキーチェンを主役にして撮影するのですが、大ゴケします。
死んだ魚のような目で、手をクルクル回す若き日のジャッキー
ドラゴン怒りの鉄拳の原題が『精武門』だったので、『新精武門』として製作されて日本では“レッド・ドラゴン新・怒りの鉄拳”という名前です。
話もひどかったですが、ジャッキーチェンもひどかったです。
怒りの鉄拳の有名なシーンをジャッキーもするのですが、見ていられなかった
1976年にロー・ウェイプロダクションの支配人ウィリーチャンの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイプロと専属契約し、芸名を陳元龍から成龍と改名した記念すべき第一作で、次の『少林寺木人拳』(原題:少林木人巷)までは、腫れぼったい一重瞼です。
武術指導のクレジットでは、この後も陳元龍を使っていました。
木人拳をテレビで放映した次の日は、中学の廊下で木人拳遊びが流行っていました。
『木人拳』は、ヒットとそしなかったものの、良い作品でした。
ジャッキーチェンも張りのある良い身体をしているし、“師匠を殺した犯人を、弟子が鍛えて敵を討つ”っていう当時のカンフー映画お決まりパターンじゃなかったんです。
ローウェイ時代の作品は、カンフー映画にしてはストーリーが凝っていて、僕は好きでした。
少林寺木人拳の大雑把なあらすじ
ダンマリ(声を発さない男)は、少林寺の門弟となっていたんだけど、少林寺ではカンフーを教えてくれずに雑用ばかりさせられる日々を送っていました。
ある日、寺の裏の洞窟に見知らぬ男が鎖で繋がれているのを発見したダンマリは、男に酒を運んで仲良くなり、少林拳の奥義を伝授してもらう。男の名は法愚といい、10年前に少林寺の掟を破ったために閉じ込められていた。
また、少林寺の管長の友人という尼僧からも拳法を習い、ダンマリはますます力をつけていく。
そしてダンマリは少林寺を出る試験として「木人」という木製のからくり人形と戦いこれを撃破、下山を許される。
細かい話は色々とあるのだけど、ある日法愚は洞窟から脱走。
ダンマリは、法愚が父を殺した犯人であることを知ってしまいます。
法愚と対面したダンマリは、初めて口を開きます。『なぜ殺したんだ?』と。
そうです、ダンマリは口がきけたのです。
幼い頃に父が殺されるのを目の前で見ていたダンマリは、父の敵を討つまでは口をきかないと心に誓っていたのです。
父を殺した犯人はマスクを被っていたので顔は分からなかったんです。
少林寺軍の代表として、法愚と対決をするダンマリは勝利するのですが、洞窟での法愚との想い出が心を駆け巡り、とどめを刺すことをためらいます。
そして、法愚を説得するのでした。
『少林寺に戻って、罪を悔いて償えば父のことは忘れます』
しかし法愚はダンマリを殺そうと技を繰り出し、それをダンマリに避けられ自分自身の拳によって死んでしまう。
法愚戦の後、ダンマリは少林寺の僧として寺に戻るのであった。
最後に剃髪しているカットで終わるバージョンも存在するらしいです。
ジャッキーチェンの映画で、対戦相手を殺していない珍しい作品でもあるんです。
自らの拳法の師匠である相手を説得し、最後までとどめをささなかった(敵役は謀略を用いて殺そうとするが失策に終わり自らを殺める、または罪を償い自害したかの様に見せてもいる)。
これらのシェイクスピア風の師弟愛が当時の日本国内、特にTV放映以降、劇中で流れる日本オリジナル主題歌「ミラクル・ガイ」の効果もあって80年代ジャッキー直撃世代の若者に受け入れられ、一部の映画雑誌の統計による「好きなジャッキー映画ランキング」で一位を獲得していたらしいです。
その2につづきます
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