今日は私の会長である川崎西口に住んでいる、金澤義春氏を紹介します。金澤氏ほど民間人で日本を憂いている人はいないのではないかと思います。特に何故こんなに日本の治安が乱れているのか。我々には考えられない数々の犯罪。子どもの見本となる大人が増々少なくなっている。この国の一番大事だった道徳が、いつの間にか不道徳国家に成り下がってしまった。このまま続けば三流国家なってしまう。最近金澤会長は乱れきっている社会を再生する為には、言葉だけ並べても何の意味もない。それは大人が当たり前のマナーを、子ども達に見せる事から始まる。
それにしても信じられないのは、小学生や幼稚園の子どもまで、性の対象にする男達が増えた事に対し、子どもを守り隊として出来るだけ昼間、地域をパトロールし特に公園や通学道路、マンションや住宅街の空き地等で遊んでいる子ども達に、声かけをしている男がいたら様子を見、男の行動がおかしいようだったら、何をやっているのかと聞くのも、子ども達を守るための抑止力になる。やはり、これ位やらないとパトロールの意味はないと云う事で、去年の11月頃から始まった
金澤会長の主な役職
有限会社 金澤土地建物 社長
さくら治療院 院長
川崎市西口再開発を考える会 会長
東京湾横断道路期成会 元副委員長
日韓トンネル推進全国会議 世話人
日本エジプト協会副会長 関東支部長
川崎環境アセス 理事長
剛洲流吟詠会 理事長
青少年育成連合会 最高顧問 |
金澤義春物語 第1部
|
|
終戦間近、私は一度は死を覚悟した予科練の生き残り予科練は飛行予科練習生の略称で昭和5年から制度が出来、小学校高等科卒業から採用。予科練の2学年で気力・体力・学力をつくる教育に徹し教程を終了すると飛行練習生。いよいよ飛行機に乗って練習が始る。予科練は5時前後の起床に始まり、毎日激しい訓練が続く。
|
|
太平洋戦争中、戦場で活躍した予科練出身の飛行士の多くは昭和17年までに入隊した人達でその戦没率は70-80%。本当に恐ろしい死亡率だ。しかしこれもお国の為多くの若者達は国の為家族の為に戦った。 しかし私は終戦と同時に特攻機に乗らずに生き残り。たしか俳優の鶴田浩二も特攻隊の生き残りだったと思う。私は、生き残った日本人としてもう惜しくは無い。死ぬ気になって社会の為に生きようと決心し生きて来た。
|
|
今だから話をしよう
|
私は福島県須賀川国民学校高等科卒業し予科練に入ったが出撃前に終戦、21年に福島県矢吹農事試験場に入学24年に卒業して農業に従事した。
|
|
このままでは農業の将来はない、伸ばすには機械力を取入れた工作農法でなければだめだ。
|
|
それには資金が必要だ。しかしそんな莫大な資金はない。では牧畜業はどうか。それも右と同じやっぱり資金がものをいう。
|
|
私は迷いを吹っ切り思い切って上京した。昭和27年1月のことである。上京したら何か仕事があるだろう。なんでもやってやるゾという意気込みであった。
|
|
東京駅へ着いて見ると焼け野原である。駅から出る気にもなれず、エイッっとばかり再び電車に乗り、降りたところが川崎駅であった。
|
これが運命というものだろうか私が川崎と縁を結ぶ第一歩だったもちろん川崎も焼け野原。今で言う東口へ出てあちこち歩き廻りやがて西口へやって来た。 |