今日も引き続き亜島圭二さんの実録・演歌虫の2回目を紹介
なんで私が演歌原点のルーツなのか…
私の師匠、作曲家の佐伯としを先生の父親と演歌の元祖、演歌の名付け親、添田唖蝉坊先生とは親友同士で、親は浅草のテキヤ…。佐伯としを先生はそういう環境で育ち、10代でギターを抱えて浅草、新宿、渋谷を流し歩き、二十歳にキングレコードの専属作曲家になった。
二葉百合子、三橋美智也、春日八郎などの作曲をする。北海道から北島三郎さんが佐伯としを先生の門を叩くが弟子にしてもらえなかった…。北島三郎さんは渋谷を流し歩き、食い繋ぎ、下宿していた大家さんの娘さんと結婚…クラウンレコードから歌手デビューとなる。
私はそれから20年後に佐伯としを先生の門を叩き内弟子となる。佐伯としを先生は厳しく、内弟子は3日で夜逃げ…。私は2年いた。当時のことをよく知っている当時、キングレコードの課長、成田良元氏が「あじちゃんはよく2年もいたな…」と驚く。成田さんは後、キングレコードの手腕部長で活躍、今、ウィングジャパンの代表プロデューサーで私とは大親友。
ホリデージャパンの亜樹社長、フリーボードレコードの勝間社長は成田さんの後輩である。勿論、亜樹社長、勝間社長と私は会っている。歌手の鏡五郎さんは成田さんが恩人…。作曲家の弦哲也先生、岡千秋先生も作曲家で食えない時、成田さんからだいぶ仕事を頂き、恩人だ。
成田さんを私はなりちゃんと呼ぶが、なりちゃんは「今の作曲家で歌手に生活とかに厳しく、また親身になって人生相談に乗る人はあじちゃん(亜島圭二)しかいないよ。」と話す。歌手のマナーが悪いのは作曲家の責任なんです。私は師匠、佐伯としを先生に歩くリズムからうるさく注意された。文章の書き方まで… また。
~蛙の子は蛙~
私の歌好きはやはり父親の遺伝子らしい…。
父親は私が生まれる前に弘前市のイベント専門歌手として、東京から歌いに来る東海林太郎さんや岡本敦郎などの歌手の前座とか、地元のイベントや祭りに引っ張りだこだった。人生は不思議…私が歌手になって岡本敦郎さんと同じステージで歌ったのだ。人生って神様が台本を書いている訳だ。この世には偶然はなく必然のみなのだ。
本職は銀行員。追っかけの7歳下の当時15歳であったファンが私の母親である。毎回、花束を持って舞台の前列に座っていたという。母親は看護婦見習いの身だった…。
お互いの両親に結婚を反対され東京に駆け落ち。すごい熱々なカップルだったようです。 まあ、1年後に結婚して17年後に私が生まれた。父親は40歳、母親は33歳。
貧乏だったので幼稚園には行けなかった。だから暇があればラジオから流れている歌謡曲を聴いていた。当時の同い年の男の子達は幼稚園で童謡だけを歌っていたね。
私は岡 晴夫の「憧れのハワイ航路」とか 若原一郎の「おーい中村君」、曽根一郎の「若いお巡りさん」などを口ずさんでいた。こんな歌謡曲三昧の幼少時代の経験が後に生きるとは!!
好きなことをずっと続ける事、モノは 何か神様の暗号が隠されている。その人間の使命を神様が教えているのだと思う。
小学校に入っても歌謡曲三昧は続くのだ。ランドセルの中には姉から貰った雑誌「平凡」の歌の付録。ラジオから聴いた歌は一度聴くだけで歌詞を見ないでフルコーラスを歌えた。
学校では休憩時間、教壇でワンマン歌謡コンサートをやりいい気になっていた。先生たちにも歌が評判良くて注意されたことがなかった。それが高校三年生まで続いた…。
小学3年の時、あることで殺傷事件を私が起こしてしまった!! 日本刀で同級生の頭を上から切りつけたのである。
何で?