15年ぐらい前のこと、自転車旅行で奄美大島を訪れました。泊まった民宿で教えられたのが、田中一村。その時私は全く知らなかったのですが、島で見た一村の絵に深く感激しました。というより、衝撃を受けました。
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田中一村(たなかいっそん)
明治41年(1908)、栃木県に生まれました。18歳のときには、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学するなど、将来を嘱望されながらも、病気や生活苦の中で中央画壇とは一線を画し、清貧の中で画業に励みました。 昭和33年、50歳の時に南の島々の自然に魅せられ、奄美大島に移り住み、大島紬の工場などで働きながら、衣食住を切り詰め、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続け、昭和52年(1977)、69歳でその生涯を終えました。
【以上、田中一村記念美術館HPより転載】
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その田中一村の展覧会が、私の地元石川県で開催されました。(7月28日~8月26日、石川県立美術館、田中一村展)
石川県宝達志水町に残された「やわらぎの郷:聖徳太子殿天井画」が修復されたことがきっかけで、開かれました。
彼の初期の南画から始まり、千葉時代の襖絵などを経て、移り住んだ奄美大島での作品が展示されていました。
中でも圧倒的なのは、奄美大島での作品群です。
私が奄美で見て感激した「アダンの海辺」や「初夏の海と赤翡翠」はじめ、彼の代表的な作品が多く展示されていました。
奄美の溢れるがごとくの明るい色彩。
しかし彼の絵は全体が薄墨のベールに覆われているような色調です。
最期まで中央画壇に認められないまま貧困の中で描き、孤独の中逝ってしまった一村。その一生を映すような絵でした。
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田中一村(たなかいっそん)
明治41年(1908)、栃木県に生まれました。18歳のときには、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学するなど、将来を嘱望されながらも、病気や生活苦の中で中央画壇とは一線を画し、清貧の中で画業に励みました。 昭和33年、50歳の時に南の島々の自然に魅せられ、奄美大島に移り住み、大島紬の工場などで働きながら、衣食住を切り詰め、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続け、昭和52年(1977)、69歳でその生涯を終えました。
【以上、田中一村記念美術館HPより転載】
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その田中一村の展覧会が、私の地元石川県で開催されました。(7月28日~8月26日、石川県立美術館、田中一村展)
石川県宝達志水町に残された「やわらぎの郷:聖徳太子殿天井画」が修復されたことがきっかけで、開かれました。
彼の初期の南画から始まり、千葉時代の襖絵などを経て、移り住んだ奄美大島での作品が展示されていました。
中でも圧倒的なのは、奄美大島での作品群です。
私が奄美で見て感激した「アダンの海辺」や「初夏の海と赤翡翠」はじめ、彼の代表的な作品が多く展示されていました。
奄美の溢れるがごとくの明るい色彩。
しかし彼の絵は全体が薄墨のベールに覆われているような色調です。
最期まで中央画壇に認められないまま貧困の中で描き、孤独の中逝ってしまった一村。その一生を映すような絵でした。
でも、行けないだろうなぁ~。
田中一村をみるには、やはり奄美大島にある彼の美術館でしょうね。なかなか行けないですが。
「一村の絵は深い色調」、なるほど。そして確かにエネルギーにあふれていますね。
コメントありがとうございました。