さんぜ通信

合掌の郷・倫勝寺のブログです。行事の案内やお寺の折々の風光をつづっていきます。 

初めて食べた精進料理

2018-12-04 20:07:39 | お坊さんのお話

 

住職が初めて精進料理と名のつく料理を食べたのは、50年近く前に家族で訪れた岩手県水沢の正法寺でした。
正法寺と言えば曹洞宗のみちのくの本山ともいわれ、日本一大きなかやぶき屋根の本堂があることでも有名です。

農協に勤めながら寺の仕事もしていた父親が三十半ばを過ぎて一念発起、住職になるべく修行に出かけたのがこの正法寺でした。
とはいえ、会社勤めをしなければ食べていけない小さなお寺では一年二年と長期間留守にするわけにはいきません。
一年に一度、夏場のひと月の修行を4回ほど繰り返したのだと思います。
ひと月ものあいだ職場を休んで修行に出かけるのは、容易なことではなかったと思います。今ならクビになっているかもしれません。

 

「明日、正法寺に行こう」
私が小学校三年生のころ、父親が突然言い出しました。
年一回のそんな特別な修行期間が終わったあとでした。正法寺に何か特別な用事があったのでしょう、もしかしたら修行の場所を家族に見せたいと思ったのかもしれません。

隣町の鱒養殖所からお土産に鱒をたくさん買って(母親がそんな生臭もの持って行っていいのか、と心配したのを覚えています)、翌朝早くに自家用車で出発することになりました。
今なら高速道路でビューンと行けますが、当時は道路の整備も充分ではありません。
まして私も妹もまだ小学生と幼稚園でしたから、道中飽きないようにあちこち立ち寄ったはずですので、相当時間もかかったはずです。
父親自慢のプリンススカイライン1500でのロングドライブでした。

 

何度も休憩を取ってようやく到着した正法寺は、実家の百倍以上はあると思われる巨大な茅葺屋根のお寺でした。
お土産の鱒を渡したあと、本堂のこれも巨大な涅槃図を見学し、お庭をまわり、僧堂にも入れてもらいました。
屋根と畳と障子しかない僧堂って、いったい何をする処なんだろうと思った記憶があります。

 

一通りの見学が終わってようやくお昼をいただくことになり、庫裡二階の一室に案内されて待っていると賄いの伯母さんが、
今日は雲水さんが出払っていて、といいながらおかずと漬け物、白いご飯にお味噌汁の載った脚付きお膳の食事を持ってきてくれました。

漆の食器やお膳は初めてでしたが、炊き立てのご飯と漆器の醸し出すいい匂いのことは今も覚えています。
しかし緊張していたせいか、どんな献立だったのかほとんど覚えていません。
ごく普通の煮物やお浸しのようなものだったと思います。
ただ、天ぷらのお皿に入ってた一品だけは鮮明に記憶に残っています。

 

「甘いから食べてごらん」

勧められ、少し醤油をつけて口に運んだのは「柿の葉の天ぷら」でした。

「遠くから来てくれたのに、何も出すものが無くて。子供が喜ぶようなものではないけど、伯母さんが採ってきたんだよ。」

パリッとした衣に包まれた、まだ中くらいの大きさの緑の葉はほのかに甘い柿の味。美味しくて夢中で食べました。
父親も初めて食べたのでしょう、しきりに感心していました。
修行中に親しくさせてもらっていた伯母さんが急に訪れた私たちのために知恵を絞り、心を込めて揚げてくれた柿の葉の天ぷらは、ロングドライブの記憶と共に今もなお心に深く残っています。

 


先日、正法寺の現住職、盛田正孝老師の文章を読む機会がありました(全国曹洞宗青年会発行 SOUSEI 183号)。
そこには「人間だけが食べ方を問われている」という言葉がありました。

他の命をいただきながら自分の命を差し出す「食物連鎖」の環から外れた人間は、その食べ方を問われている。
それは、人間はどのように食べても勝手なのだという事にはならない、ということだ。
国内外で作られている食べ物を、活かしきることなく棄ててしまっている現実。
そして、その食べ物を捨てている状況を知りながら何も思わない心。それが問題なのだ。
物を粗末にしないで生かし切るという禅の教えが、もっと浸透していかないといけない。
命を奪いながらそれを平然と破棄する人間だからこそ、食べるという行為が厳しく問われている、というメッセージを出していかなければならない、という内容でした。



僧侶の生活も、今は一般の方とほとんど変わりません。
葬儀や法事の後席に出れば、お寿司やお肉が供されることが当たり前になりました。
かく言う住職も、健康のため食べすぎに注意し、高血圧に気を付けていつのまにか手をつけずに遠慮してしまうこともしばしば。
「比丘の口、竈のごとし」と好き嫌いを言わずに何でも食べた雲水時代は遠い昔です。


「精進料理」という窓口からお寺に興味や親しみをもってくだされば、と模索してきた住職ですが、今一度、食事や典座のあり方を勉強し直す時期が来ているようです。
盛田老師が言われるように「食べる」という行為が問われるということは「僧侶」としての生き方が問われているということを自覚し、
「食べることが修行なのだ」ということを伝えていかなくてはならないと考えています。
正法寺の伯母さんが作ってくれた、柿の葉の天ぷらをお手本として。

霊園の紅葉、今年は残念なことになりました。
以前にもお伝えしたように、この秋の台風の塩害でモミジの葉が茶色く枯れているのです。

今回のブログの写真は、何とか生き残った一部のモミジ。

来年はいい色になりますように。

今日はここまで。



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