【写真:サハリンは今日も何かを語っている@宗谷岬 2003年10月15日07時20分撮影】
★この写真は記事の内容と直接関係がありません。
毎年、出かけるところがある。宗谷岬。訪れるのは夏から秋の早朝
が多く岬は静かにそこに横たわっている。快晴のときは岬から北方に
サハリンを望むことができる。彼我の距離わずか43Km。
日本最北端の地からサハリンに続く海を見つめながら、いつも思う
ことがある。それは1983年に起きたある事件のことである。
大韓航空機狙撃事件
1983年 9月 1日 3時23分、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル
行きのKE007 便ボーイング747ジャンボ機は、北海道近海から成田
管制塔に「高度33,000ftに達した」と連絡してきたのを最後に消息を
絶った。翌日アメリカは以下の通り発表した。
同機がソ連領空のサハリン上空を侵犯した模様で、ソ連軍戦闘機
によって撃墜された
数日後、ソ連も事実を確認した。同機にはチュン・ビュン・イン機
長をはじめに乗員29名、日本人28名を含む乗客 240名が搭乗していた
が、全員死亡した。
なぜ 007便はコースを外れソ連領内に深く入り込んでしまったのか。
当時様々な説が披露された。その一説として、自動管制装置INSの
セットミスがある。だが、それは熟練したパイロットが犯すとはとう
てい思えないミスで、真相は他にあると言われていた。
当時サハリン海域ではアメリカ空軍の電子偵察機 RC135が繰り返し
ソ連領空に侵入し偵察行為を展開していたため、ソ連軍機は対象機を
偵察機と誤認し民間機と気づかず撃墜させたというのが真相だろうと
言われていた。しかし、ソ連は回収したはずのブラック・ボックスや
フライト・レコーダーの存在を認めようとせず、乗員乗客の遺体の回
収についてもその事実を隠蔽している。アメリカも RC135の飛行記録
や KAL機の航跡レーダー記録などを明らかにしなかった。
その後、事件についての多くの疑問点はソ連が崩壊した1990年代ま
で解明されないままであった。しかし冷戦が終結したことを受けて、
1991年にパリで行われた国際テロ対策会議でオレグ・カルーギンソ連
国家保安委員会議長顧問が、「この事件の詳細を日本側に報告する」
と佐々淳行元内閣安全保障室長に表明。ロシア政府が回収を秘匿して
いた 007便のブラック・ボックスを国際民間航空機関(ICAO)に提出
したことで解析が進んだ。ICAOは解析結果をもとに1993年に調査報告
を提出した。その概要は以下の通り。
航路逸脱の原因は、乱気流もしくは積乱雲回避のため一時的に
ヘディングモード(方位角モード:方位のみを指定する自動操
縦)へ切り替えたままINS モード(外部情報に頼らず論理的な
通過点を自機の受ける加速度等から推測してたどって行く航法)
に戻し忘れたか、もしくはINS モードに切り替えたが、所定の
航路から7.5マイル離れていたために作動しなかった
そして、航路逸脱の原因は、以下のいずれかであるとされた。
1.慣性航法装置の入力ミス
2.慣性航法装置の起動ミス
3.慣性航法装置の切り替えミス
しかし、それ以前にはアメリカ軍部の指示説なるものも出ていた。
例えば次のような仮説である。
KE007 はなんらかの「役割」を担っていたのではないか。同機
の撮影を迫っていた自衛隊のレーダーによると007 便は成田へ
の報告をせずに急上昇と急降下を繰り返し、しきりに高度を変
えていたという。何の目的でそのような飛行をしたのであろう
か。同機は民間機の立場を過信して、アメリカ空軍に協力して
ソ連領空と知りつつ、ソ連軍のレーダー網を調査するために、
故意に領空を侵犯した可能性がある。
航路逸脱の原因は究明されていない・・・。
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