金木駅で改札が始まった。ストーブ列車が入る、反対側へのホームに向かう。
駅に掲げられたイラスト。斜陽館と河原地蔵、後ろは地元の稲荷神社だろうか。
ストーブ列車と行き違う津軽中里行が先に入ってきた。
運転士がタブレットの入ったかばんを返却する。ストーブ列車はこれを持って津軽五所川原へと向かう。
鉄道の安全を守るための基本課題は、追突と正面衝突を避けることである。そのために、行き違いや追い越しのできない区間に入る列車を制限する、さまざまなシステムが発達してきた。
現在では日本のほとんどの路線で、電気信号や電子制御による自動的なシステムが用いられているが、津軽鉄道は今でも「タブレット閉塞式」という人の手による安全システムが残っている。
細かい説明はここでは避けるが(ご関心のある方はこちらを読まれたい)、簡単に言えば、単線で行き違いの出来ない区間を区切り、タブレットを持つ列車のみがその区間を走行できるようにするというものだ。
かつては日本全国で使われていたこの方法も、自動化が進んだせいで現在はほとんど見かけなくなった。津軽鉄道は、残り少ない貴重な路線なのだ。
ストーブ列車が入ってきた。機関車の後ろにディーゼルカーに続き、旧式客車が2両連結されている。ストーブ列車は300円の料金が別途かかるので、料金なしのディーゼルカーにも乗れるようにしている。
旧式客車を撮り、急いで乗り込む。
この客車は戦後すぐに国鉄で製造されたもので、津軽鉄道に譲渡されたのは昭和50年代。以来、現在まで名物として走り続けているが、さすがに近年は維持するのも苦労があるらしい。
ストーブ列車の料金を取るようになったのも、決して楽ではない経営の中、何とか維持費を確保したいという事情があるためだ。
ストーブ列車の稀少性ももちろんだが、古い客車をいつまでも走れる状態にしているだけでも大変なことなのだ。
車掌室にはストーブで燃やす石炭が備えてあった。この客車は元々通常の暖房が使えたのだが、わざわざダルマストーブを備えるようになったのは、津軽鉄道の機関車が暖房を供給できないためだそうだ。
客室に入る。奥では何やら撮影中。最近はストーブ列車もだいぶ知られるようになっているようだし、旅番組のロケでも来ているのだろうか。
邪魔にならないよう手前で席を探そうと思ったところ、ストーブの真ん前の席に案内された。
先客は撮影クルーのほかに2人だけ。アテンダント氏曰く、今年は大震災後の東北観光ブームも終わり、「日本海」廃止もあって、観光客が少ないとのこと。
それが故に上席が空いていたと思うと複雑だが、素直に幸運を喜びたい気もする。
私が金木で仕入れたスルメを持っているのを見ると、アテンダント氏がストーブで焼いてくれた。こういう気遣いが嬉しいではないか。
石炭ストーブの温もり、炙ったスルメときたら、呑まぬわけにはいかないではないか。
外はただただ白い世界。車窓を見ても仕方がない。それもあって、同乗の乗客にアテンダントと話が弾む。
一人旅だと一日中ろくに口をきかない日もある中、これだけ話したのはいつ以来だろう。
津軽五所川原が近づいてきた。車掌が慣れた手つきで、ストーブに石炭をくべていく。
ほどなく終点、津軽五所川原に着いた。この日1両のみ駅に留置されていた旧型客車の出迎えを受ける。
金木では撮る時間の無かったディーゼル機関車を撮影。
JRの特急や急行と比べると手作り感のあるヘッドマーク。
ディーゼル機関車の車輪。マニアックな話だが、この機関車はロッド式といって、要はSLの動輪と同じ要領で車輪に動きを伝えている。
不勉強ながら、ディーゼル機関車でこの駆動方法をとる機関車がいまだに現役で走っているとは知らなかった。金木で入線するのを見た時には衝撃すら覚えたものだ。
機関車はここで津軽中里方面に付け替えになる。
付け替えのために走る線路は完全に雪で埋もれている。そこをかき分けながら、機関車はゆっくりと動いていった。
五所川原から弘前・青森方面へのJRは夕方になるまでない。なので、ここからはバスで青森に出ることにする。
バスターミナルの時刻表は、なんと筆で縦書き。私が幼い頃は、まだ見かけるところも多かったが、21世紀に入って10年以上経ったこのご時世に残っているとは。
青森行のバスが入ってきた。出入り口は前に1箇所のみ、しかも床は木張り。確か、私が小学生の頃、田舎で導入された最新鋭バスがこんな感じだったが、そちらは後ろにもドアがあった気がする。
さておき、このバスで雪の峠を越え、定時では1時間と少しのところ、1時間半かかって青森駅前に着いた。
買い物を済ませてホームに出ると、臨時となった寝台特急「日本海」がまもなく入線するという。
ディーゼル機関車に引かれて「日本海」入線。ここで進行方向を変え、最後尾につけられた電気機関車が青森から引っ張っていくはずなのだが、その機関車がいない。
少し遅れて電気機関車が到着。なぜ別にやって来たのかは分からない。
客車との連結作業。相変わらず冬の作業は大変だ。
連結作業は無事終了。旅の準備はほぼ整った。
出発を待つ「日本海」。定刻通りなら青森を出るのは16時21分。
そして、終点大阪着は10時27分。18時間余りの長旅である。
車内に入る。青森を出たのは結局2分遅れのことであった。
列車には食堂車などもちろんなく、かつてあった車内販売もなくなっている。こうなることは予期していたので買い物も十分済ませておいた。いささか酒が少ない気もしたが、乗ってしまった以上は仕方ない。
列車は弘前から大鰐温泉、大館、鷹巣とどんどん遅れていく。ただ、この2日間経験してきた寒さと風雪を考えると、それでも列車が動くことがありがたいくらいだ。
することがないなら、寝ればよい。早々に夕食を済ませ、寝床を作って横になると、そのまま寝入ってしまった。
気がついた時には、既に北陸路。あれだけあった雪も薄く(あくまでも津軽よりは、であるが)積もるばかりで、20分近くの遅れも解消されてしまっていた。
その後は何ということもなく、敦賀で機関車を代え、京都、新大阪ときて、終点大阪には2分遅れで到着。あの一面の白い世界が、まるで何かの幻想だったかのように、いつもの都会の姿が私を呑み込んだ。
〔津軽流れ旅〕(了)
駅に掲げられたイラスト。斜陽館と河原地蔵、後ろは地元の稲荷神社だろうか。
ストーブ列車と行き違う津軽中里行が先に入ってきた。
運転士がタブレットの入ったかばんを返却する。ストーブ列車はこれを持って津軽五所川原へと向かう。
鉄道の安全を守るための基本課題は、追突と正面衝突を避けることである。そのために、行き違いや追い越しのできない区間に入る列車を制限する、さまざまなシステムが発達してきた。
現在では日本のほとんどの路線で、電気信号や電子制御による自動的なシステムが用いられているが、津軽鉄道は今でも「タブレット閉塞式」という人の手による安全システムが残っている。
細かい説明はここでは避けるが(ご関心のある方はこちらを読まれたい)、簡単に言えば、単線で行き違いの出来ない区間を区切り、タブレットを持つ列車のみがその区間を走行できるようにするというものだ。
かつては日本全国で使われていたこの方法も、自動化が進んだせいで現在はほとんど見かけなくなった。津軽鉄道は、残り少ない貴重な路線なのだ。
ストーブ列車が入ってきた。機関車の後ろにディーゼルカーに続き、旧式客車が2両連結されている。ストーブ列車は300円の料金が別途かかるので、料金なしのディーゼルカーにも乗れるようにしている。
旧式客車を撮り、急いで乗り込む。
この客車は戦後すぐに国鉄で製造されたもので、津軽鉄道に譲渡されたのは昭和50年代。以来、現在まで名物として走り続けているが、さすがに近年は維持するのも苦労があるらしい。
ストーブ列車の料金を取るようになったのも、決して楽ではない経営の中、何とか維持費を確保したいという事情があるためだ。
ストーブ列車の稀少性ももちろんだが、古い客車をいつまでも走れる状態にしているだけでも大変なことなのだ。
車掌室にはストーブで燃やす石炭が備えてあった。この客車は元々通常の暖房が使えたのだが、わざわざダルマストーブを備えるようになったのは、津軽鉄道の機関車が暖房を供給できないためだそうだ。
客室に入る。奥では何やら撮影中。最近はストーブ列車もだいぶ知られるようになっているようだし、旅番組のロケでも来ているのだろうか。
邪魔にならないよう手前で席を探そうと思ったところ、ストーブの真ん前の席に案内された。
先客は撮影クルーのほかに2人だけ。アテンダント氏曰く、今年は大震災後の東北観光ブームも終わり、「日本海」廃止もあって、観光客が少ないとのこと。
それが故に上席が空いていたと思うと複雑だが、素直に幸運を喜びたい気もする。
私が金木で仕入れたスルメを持っているのを見ると、アテンダント氏がストーブで焼いてくれた。こういう気遣いが嬉しいではないか。
石炭ストーブの温もり、炙ったスルメときたら、呑まぬわけにはいかないではないか。
外はただただ白い世界。車窓を見ても仕方がない。それもあって、同乗の乗客にアテンダントと話が弾む。
一人旅だと一日中ろくに口をきかない日もある中、これだけ話したのはいつ以来だろう。
津軽五所川原が近づいてきた。車掌が慣れた手つきで、ストーブに石炭をくべていく。
ほどなく終点、津軽五所川原に着いた。この日1両のみ駅に留置されていた旧型客車の出迎えを受ける。
金木では撮る時間の無かったディーゼル機関車を撮影。
JRの特急や急行と比べると手作り感のあるヘッドマーク。
ディーゼル機関車の車輪。マニアックな話だが、この機関車はロッド式といって、要はSLの動輪と同じ要領で車輪に動きを伝えている。
不勉強ながら、ディーゼル機関車でこの駆動方法をとる機関車がいまだに現役で走っているとは知らなかった。金木で入線するのを見た時には衝撃すら覚えたものだ。
機関車はここで津軽中里方面に付け替えになる。
付け替えのために走る線路は完全に雪で埋もれている。そこをかき分けながら、機関車はゆっくりと動いていった。
五所川原から弘前・青森方面へのJRは夕方になるまでない。なので、ここからはバスで青森に出ることにする。
バスターミナルの時刻表は、なんと筆で縦書き。私が幼い頃は、まだ見かけるところも多かったが、21世紀に入って10年以上経ったこのご時世に残っているとは。
青森行のバスが入ってきた。出入り口は前に1箇所のみ、しかも床は木張り。確か、私が小学生の頃、田舎で導入された最新鋭バスがこんな感じだったが、そちらは後ろにもドアがあった気がする。
さておき、このバスで雪の峠を越え、定時では1時間と少しのところ、1時間半かかって青森駅前に着いた。
買い物を済ませてホームに出ると、臨時となった寝台特急「日本海」がまもなく入線するという。
ディーゼル機関車に引かれて「日本海」入線。ここで進行方向を変え、最後尾につけられた電気機関車が青森から引っ張っていくはずなのだが、その機関車がいない。
少し遅れて電気機関車が到着。なぜ別にやって来たのかは分からない。
客車との連結作業。相変わらず冬の作業は大変だ。
連結作業は無事終了。旅の準備はほぼ整った。
出発を待つ「日本海」。定刻通りなら青森を出るのは16時21分。
そして、終点大阪着は10時27分。18時間余りの長旅である。
車内に入る。青森を出たのは結局2分遅れのことであった。
列車には食堂車などもちろんなく、かつてあった車内販売もなくなっている。こうなることは予期していたので買い物も十分済ませておいた。いささか酒が少ない気もしたが、乗ってしまった以上は仕方ない。
列車は弘前から大鰐温泉、大館、鷹巣とどんどん遅れていく。ただ、この2日間経験してきた寒さと風雪を考えると、それでも列車が動くことがありがたいくらいだ。
することがないなら、寝ればよい。早々に夕食を済ませ、寝床を作って横になると、そのまま寝入ってしまった。
気がついた時には、既に北陸路。あれだけあった雪も薄く(あくまでも津軽よりは、であるが)積もるばかりで、20分近くの遅れも解消されてしまっていた。
その後は何ということもなく、敦賀で機関車を代え、京都、新大阪ときて、終点大阪には2分遅れで到着。あの一面の白い世界が、まるで何かの幻想だったかのように、いつもの都会の姿が私を呑み込んだ。
〔津軽流れ旅〕(了)
特急列車の車掌が通過した区間のタブレットを棒に引っ掛け、その後ホームの反対側の端で棒の先にセットされたこれから進む区間のタブレットの紐を掴んで回収。
通過待ちをしていた普通列車が特急が置いていったタブレットを受け取ります。
特急がタブレット取り損ねたらどうなるんだろうなー(笑)
通過中の受け渡しはあちこちで行っていたんですね。
>特急がタブレット取り損ねたら
急行だとこうなります……
http://www.youtube.com/watch?v=ID4929NZEW8
これ、不思議ですよね。
秋田新幹線で移動したときにいつも思います。
行きにしろ帰りにしろ、大宮ー仙台間の1時間で
だんだん窓から見える景色が変わってきます。
行きは仙台(手前の福島を通過したあたり)
帰りは上野あたりで、旅の始まりと終わりを感じます。
雪がなくなっていくのが見て取れますね。
その辺りで、旅も終わってしまうのだなぁと寂しい気持ちになります(笑)
鉄ちゃんのようだからご存知かと思いましたが。
寝台車の客車は青森駅から三厩寄りの青森車両センターにありますから、そこから入れ換え用の機関車で持ってきます。
対して電気機関車は青い森鉄道側の東派出に常駐しているので、そこから回送されるためです。
昨年乗った時は電機が既に併結された状態で入線していたので、ふと気になったのです。