またあの日が来るんか。知らん間に10年経ってもうたわ。そんな昔のことやないと思ってたんやけど、ホンマに早いもんや。
正直、あの時のことは思い出したない気持ちもあるし、なによりぼくみたいなんが偉そうなことをいうてええんか疑問もないではない。だって、ぼくよりはるかに悲しい思いをした人は、この街にはザラにいてはるもん。
やけど、ぼくはあの時確かに被災地と呼ばれる場所にいて、あの揺れを体験した。ズタズタになった街で、ぼくは生きていた。そやから、あの地震のことも書かなあかんと思う。
こういう話がウザいって人は、はっきり言って読まん方がええと思う。読んで楽しい話やないし。
けど、もし読んでみたいって人がいてはったら、長くなるけどつきあってくれると嬉しい。
あの時、ぼくは家でうつらうつらしとった。あの日は連休明けの火曜日で、片道1時間半かかるところにある大学で9時から講義があったから、はよ起きなあかんかったんで、意識はあったんや。
そんな時、いきなり小さな横揺れがした。「あれ?」って思てたら、突然ムチャクチャな縦揺れに襲われた。何がなんだか分からんかった。怖いとすら思わんかった。それどころか、「これで死ぬんやわ」て思ってしまった。ホンマに恐怖を感じたんは揺れが収まってからやった。
まぁとにかく揺れは収まったんで、自分の部屋を飛び出した。家の中はムチャクチャやったけど、お袋と妹はとりあえず無事。同じアパートに住んでて付き合いのあった一人暮らしのおばあさんが気になってみんなで様子を見に行ったけど、幸いケガもしてへんかった。
この時親父はジョギングに出てて、家におらへんかった。どうなったんか不安やったけど、しばらくしたら何とか帰ってきた。親父の姿を見てお袋が泣いて飛びついたんはよう覚えてるわ。
同じように外に出とった飼い猫も、地震でカンが狂ったんか迷子になりかけてたけど、何とか見つけて声かけたら戻ってきた。
そうこうするうちに夜が明けた。今やから笑えるけど、この時のぼくは冗談抜きでこのまま永遠に夜が明けへんままやと本気で思とった。せやから、当たり前のことなのに、朝になったのが嬉しかった。
夜が明けた。家の中はメチャメチャやしガスはつかへんけど、電気は何とか戻ったし、水道も給水塔が非常電源で動いとる。ラジオでも特に大きな被害が出たって話はしてへんし、あない揺れた割にはどってことなかったみたいやな。そう思てホッとしとった。
ホンマのことはすぐには分からんもんや。時間がたってはじめて恐ろしい現実が伝わってきた。
「芦屋で200人生き埋め」という第一報にはじまり、「神戸で大規模な火災」「阪神高速の橋桁落下」次々に伝えられる信じられない現実。目を覆いたくなる映像。時間を追うごとに増えていく死者・行方不明者・倒壊家屋の数。
けど、それは現実やった。神戸の黒煙はうちからも見えた。テレビに映された無残な倒壊現場の多くは、ぼくにとって大事な場所やった。なんでこんなことに……悔しかった。
自分らの生活かて無傷やあれへん。水道はその日の昼前に使えんようになった。店に行っても食べるものがない。水と食べ物をなんとかせなあかん。ここから、朝は4時か5時に起きて近所にあった井戸へ水汲みに行き、昼間は通学の道すがら買出しという生活が始まった。
住んでるアパートも地震で微妙に傾いた。1階の人は壁にヒビが入ったって言うてはった。となりのアパートはこちら側に完全に傾いて、人が住める状態やなかった。もし余震でこっちに倒れてきたら……夜、明かりが1つもついてないがらんどうのアパートを見るのは本当に怖かった。
ただ、そのアパートは後で建て起こし工事をやって何とか元通りになった。うちの棟も「倒壊の危険はない」という専門家の判断が出たんで、とりあえず助かった。
そうこうするうちに1ヶ月近くが経ち、ある日ぼくは卒業した高校に行ってみた。学校自体に被害があったのが心配やったんと、救援物資の基地になってるという話を聞いてたんで、何か手伝えるんちゃうかなと思ってのことやった。
高校に行くには、電車を降りて駅から少し先の大きい道を渡る。この道のところで信号待ちになった。ここまでは高校時代と変わらへん。
けど、道の向こうにある家並みは壊滅状態やった。3年間の思い出が詰まった通りは、変わり果てた姿をそのまま晒していた。
信号が青になった。けど、この時ぼくの足は動かんかった。身体が言うことを聞かんかった。怖かったんか、これ以上何も見たくなかったんか、よう分かれへん。とにかく、足が動くのを拒んだ。その後何とか前に進めるようにはなったけど、あの時の感覚は忘れられへん。
ただ、行った先では先生から「ボランティアの組織が入っていて、人手は大丈夫や。心配するな」と言われ、お互いに近況を話しただけで帰ることになった。
ぼくは何しに行ったんやろ。なんもでけんとは……無力感だけが残った。
けど、そう感傷的になってるだけではおられん。自分らの生活は守らなあかんし、近所には祖父母がいてたから、その手伝いもせなあかん。この頃は給水車が来るようになって、水の不便はマシになってたけど、水道がないのは変わらんし、ガスもない。
もっとしんどい思いをしている人がいるのは百も承知やけど、まずは自分らのことをせな。自分らまでが他人の手を煩わしとったら、ホンマに困ってる人まで手が回らん。そう思うことにした。
そうする間に、ガスが戻り、水道が戻り、しばらくして電車も神戸まで走るようになった。
うちの近所の公園や高校のグランドに仮設が立ち並び、避難所も徐々に少なくなっていった。橋桁がポツポツ抜けてた阪神高速も2年と経たないうちに復旧した。その後「復興住宅」という団地群が神戸や阪神間のあちこちに建ち並び、仮設もなくなった。
そして、あしたで10年。地震の被害は、一見なくなったように見える。
けど、それは一見ということでしかない。いまだに家も何もない、更地のまんまの土地が広がってるところは少なくない。地震で壊れて、いまだに再建が始まってないマンションだってある。
家の問題だけやなく、経済的な問題もある。神戸や阪神間は人口こそ増えたけど、経済的には冷え込んだ状態から抜け出せてない。日本全体の問題も絡んでるけど、雇用も回復してないらしい。
それに、あの地震で傷ついた人の心はまだ癒えてない。最近読んだ新聞のアンケートでは、精神的に立ち直れていないと答えた人が約3割いたって話や。
ぼくですらいまだにちょっとした揺れが怖かったり、震災関連の映像が怖くて見られへんかったりする。せやから、もっとひどい被害にあって、悲しい思いをした人が今も苦しんでるのは当然やと思う。
震災は、まだ終わってない。
間違っても、終わったことにしたらあかん。
あの地震があって、ぼくはいろんなものを見てきた。
被災者のことを何とも思わへん役人連中。被災者が役人に直接要望を出すと言うテレビ番組がちょこちょこあったけど、鬱陶しい仕事にかかわりたくないと言う本音がミエミエやった。
あまりの態度にブチギレて席を立つ被災者もいてた。当然じゃボケ!それ以来、ぼくは「役所にモノを期待するのはアホ」というのを教訓にしている。
1日か2日だけ通り一遍等の報道をして、あとはとっとと普通の番組編成に戻ったテレビ局。別に他所の地域で何をしようがかめへん。地震の話なんてうざいだけ、聞きたくもないとしか思われん奴も世の中にはいてるし、そういうカスにも配慮せな商売としてやってられんのやろ。
けど、それを関西の局で流す必然性はどこにある?必死の思いで情報を求めてる人に見せつけなあかん必要はどこにあるねん?
テレビの連中にとっては、人が何千人死のうが十何万人死のうがどうでもよくて、視聴率を取れるかどうかだけが大事なんやろと思った。名前は出さんけど、ある局はあまりに酷かったんで、地震以来かなりの間見ないことにしてた。
「非常時には人の本性が露になる」実際にその通りやと思う。あの地震で、今言うたほかにも醜い人間、情けない人間をイヤというほど見てきた。そんな連中のことはこれ以上書きたくもないし、意図的に思い出せへんようにしている部分もあるから、これ以上は書けへん。
けど忘れたらあかんのが、こういう非常時だからこそ、助け合おうとする心を持った人たちが現れたことやと思う。全国から駆けつけてくれたボランティアの方々にはただただ感謝の一言や。
ぼくは幸い世話にならんで済んだけど、来てくれたという事実だけでどれだけ嬉しかったか。勇気づけられる思いがしたか。ホンマに、ホンマに、ありがとう。
これから先、多分また大きな災害は起きるやろし、それを防ぐことは完全には無理やろと思う。そんな時に、震災を体験したぼくらができることは何なのか。それを考えて、やるべきことをやってくことが、これから大事になるんやろな。
なんか、とりとめのない話をうだうだ書いてしもたわ。もうちょっとうまくまとめられんのかと自分でも思うけど、最後まで読んでくれて、ホンマにありがとう。
そしたら、また。
正直、あの時のことは思い出したない気持ちもあるし、なによりぼくみたいなんが偉そうなことをいうてええんか疑問もないではない。だって、ぼくよりはるかに悲しい思いをした人は、この街にはザラにいてはるもん。
やけど、ぼくはあの時確かに被災地と呼ばれる場所にいて、あの揺れを体験した。ズタズタになった街で、ぼくは生きていた。そやから、あの地震のことも書かなあかんと思う。
こういう話がウザいって人は、はっきり言って読まん方がええと思う。読んで楽しい話やないし。
けど、もし読んでみたいって人がいてはったら、長くなるけどつきあってくれると嬉しい。
あの時、ぼくは家でうつらうつらしとった。あの日は連休明けの火曜日で、片道1時間半かかるところにある大学で9時から講義があったから、はよ起きなあかんかったんで、意識はあったんや。
そんな時、いきなり小さな横揺れがした。「あれ?」って思てたら、突然ムチャクチャな縦揺れに襲われた。何がなんだか分からんかった。怖いとすら思わんかった。それどころか、「これで死ぬんやわ」て思ってしまった。ホンマに恐怖を感じたんは揺れが収まってからやった。
まぁとにかく揺れは収まったんで、自分の部屋を飛び出した。家の中はムチャクチャやったけど、お袋と妹はとりあえず無事。同じアパートに住んでて付き合いのあった一人暮らしのおばあさんが気になってみんなで様子を見に行ったけど、幸いケガもしてへんかった。
この時親父はジョギングに出てて、家におらへんかった。どうなったんか不安やったけど、しばらくしたら何とか帰ってきた。親父の姿を見てお袋が泣いて飛びついたんはよう覚えてるわ。
同じように外に出とった飼い猫も、地震でカンが狂ったんか迷子になりかけてたけど、何とか見つけて声かけたら戻ってきた。
そうこうするうちに夜が明けた。今やから笑えるけど、この時のぼくは冗談抜きでこのまま永遠に夜が明けへんままやと本気で思とった。せやから、当たり前のことなのに、朝になったのが嬉しかった。
夜が明けた。家の中はメチャメチャやしガスはつかへんけど、電気は何とか戻ったし、水道も給水塔が非常電源で動いとる。ラジオでも特に大きな被害が出たって話はしてへんし、あない揺れた割にはどってことなかったみたいやな。そう思てホッとしとった。
ホンマのことはすぐには分からんもんや。時間がたってはじめて恐ろしい現実が伝わってきた。
「芦屋で200人生き埋め」という第一報にはじまり、「神戸で大規模な火災」「阪神高速の橋桁落下」次々に伝えられる信じられない現実。目を覆いたくなる映像。時間を追うごとに増えていく死者・行方不明者・倒壊家屋の数。
けど、それは現実やった。神戸の黒煙はうちからも見えた。テレビに映された無残な倒壊現場の多くは、ぼくにとって大事な場所やった。なんでこんなことに……悔しかった。
自分らの生活かて無傷やあれへん。水道はその日の昼前に使えんようになった。店に行っても食べるものがない。水と食べ物をなんとかせなあかん。ここから、朝は4時か5時に起きて近所にあった井戸へ水汲みに行き、昼間は通学の道すがら買出しという生活が始まった。
住んでるアパートも地震で微妙に傾いた。1階の人は壁にヒビが入ったって言うてはった。となりのアパートはこちら側に完全に傾いて、人が住める状態やなかった。もし余震でこっちに倒れてきたら……夜、明かりが1つもついてないがらんどうのアパートを見るのは本当に怖かった。
ただ、そのアパートは後で建て起こし工事をやって何とか元通りになった。うちの棟も「倒壊の危険はない」という専門家の判断が出たんで、とりあえず助かった。
そうこうするうちに1ヶ月近くが経ち、ある日ぼくは卒業した高校に行ってみた。学校自体に被害があったのが心配やったんと、救援物資の基地になってるという話を聞いてたんで、何か手伝えるんちゃうかなと思ってのことやった。
高校に行くには、電車を降りて駅から少し先の大きい道を渡る。この道のところで信号待ちになった。ここまでは高校時代と変わらへん。
けど、道の向こうにある家並みは壊滅状態やった。3年間の思い出が詰まった通りは、変わり果てた姿をそのまま晒していた。
信号が青になった。けど、この時ぼくの足は動かんかった。身体が言うことを聞かんかった。怖かったんか、これ以上何も見たくなかったんか、よう分かれへん。とにかく、足が動くのを拒んだ。その後何とか前に進めるようにはなったけど、あの時の感覚は忘れられへん。
ただ、行った先では先生から「ボランティアの組織が入っていて、人手は大丈夫や。心配するな」と言われ、お互いに近況を話しただけで帰ることになった。
ぼくは何しに行ったんやろ。なんもでけんとは……無力感だけが残った。
けど、そう感傷的になってるだけではおられん。自分らの生活は守らなあかんし、近所には祖父母がいてたから、その手伝いもせなあかん。この頃は給水車が来るようになって、水の不便はマシになってたけど、水道がないのは変わらんし、ガスもない。
もっとしんどい思いをしている人がいるのは百も承知やけど、まずは自分らのことをせな。自分らまでが他人の手を煩わしとったら、ホンマに困ってる人まで手が回らん。そう思うことにした。
そうする間に、ガスが戻り、水道が戻り、しばらくして電車も神戸まで走るようになった。
うちの近所の公園や高校のグランドに仮設が立ち並び、避難所も徐々に少なくなっていった。橋桁がポツポツ抜けてた阪神高速も2年と経たないうちに復旧した。その後「復興住宅」という団地群が神戸や阪神間のあちこちに建ち並び、仮設もなくなった。
そして、あしたで10年。地震の被害は、一見なくなったように見える。
けど、それは一見ということでしかない。いまだに家も何もない、更地のまんまの土地が広がってるところは少なくない。地震で壊れて、いまだに再建が始まってないマンションだってある。
家の問題だけやなく、経済的な問題もある。神戸や阪神間は人口こそ増えたけど、経済的には冷え込んだ状態から抜け出せてない。日本全体の問題も絡んでるけど、雇用も回復してないらしい。
それに、あの地震で傷ついた人の心はまだ癒えてない。最近読んだ新聞のアンケートでは、精神的に立ち直れていないと答えた人が約3割いたって話や。
ぼくですらいまだにちょっとした揺れが怖かったり、震災関連の映像が怖くて見られへんかったりする。せやから、もっとひどい被害にあって、悲しい思いをした人が今も苦しんでるのは当然やと思う。
震災は、まだ終わってない。
間違っても、終わったことにしたらあかん。
あの地震があって、ぼくはいろんなものを見てきた。
被災者のことを何とも思わへん役人連中。被災者が役人に直接要望を出すと言うテレビ番組がちょこちょこあったけど、鬱陶しい仕事にかかわりたくないと言う本音がミエミエやった。
あまりの態度にブチギレて席を立つ被災者もいてた。当然じゃボケ!それ以来、ぼくは「役所にモノを期待するのはアホ」というのを教訓にしている。
1日か2日だけ通り一遍等の報道をして、あとはとっとと普通の番組編成に戻ったテレビ局。別に他所の地域で何をしようがかめへん。地震の話なんてうざいだけ、聞きたくもないとしか思われん奴も世の中にはいてるし、そういうカスにも配慮せな商売としてやってられんのやろ。
けど、それを関西の局で流す必然性はどこにある?必死の思いで情報を求めてる人に見せつけなあかん必要はどこにあるねん?
テレビの連中にとっては、人が何千人死のうが十何万人死のうがどうでもよくて、視聴率を取れるかどうかだけが大事なんやろと思った。名前は出さんけど、ある局はあまりに酷かったんで、地震以来かなりの間見ないことにしてた。
「非常時には人の本性が露になる」実際にその通りやと思う。あの地震で、今言うたほかにも醜い人間、情けない人間をイヤというほど見てきた。そんな連中のことはこれ以上書きたくもないし、意図的に思い出せへんようにしている部分もあるから、これ以上は書けへん。
けど忘れたらあかんのが、こういう非常時だからこそ、助け合おうとする心を持った人たちが現れたことやと思う。全国から駆けつけてくれたボランティアの方々にはただただ感謝の一言や。
ぼくは幸い世話にならんで済んだけど、来てくれたという事実だけでどれだけ嬉しかったか。勇気づけられる思いがしたか。ホンマに、ホンマに、ありがとう。
これから先、多分また大きな災害は起きるやろし、それを防ぐことは完全には無理やろと思う。そんな時に、震災を体験したぼくらができることは何なのか。それを考えて、やるべきことをやってくことが、これから大事になるんやろな。
なんか、とりとめのない話をうだうだ書いてしもたわ。もうちょっとうまくまとめられんのかと自分でも思うけど、最後まで読んでくれて、ホンマにありがとう。
そしたら、また。
長々と書き連ねた文章をお読みいただいた上で恐縮なのですが、私から皆さんにお願いしたいことがあります。
この記事の上に写真だけで本文が何もない記事があるのをご覧になったと思います。
お分かりの方もいらっしゃるでしょうが、この記事の投稿日時は阪神・淡路大震災からちょうど10年になるように合わせております。
また、写真の女神像は震災で倒壊したもので、時計はその時に止まったままです。
この記事は、震災10年の時、2005年1月17日5時46分30秒という時を刻み込み、記憶に留めるためのものであります。この時間には私も震災で犠牲となった方々に黙祷を捧げることにしております。
ですので、もし皆さんの中でご賛同いただける方がいらっしゃいましたら、この記事に刻まれた時、5時46分30秒に1分間の黙祷を捧げていただきますよう、よろしくお願いいたします。
なお、明日1月17日は勝手ながら震災関連記事へのレス以外の活動を控えさせていただきたいと思います。
したがいまして、記事にコメントをいただきましても、レスをさせていただくのは18日以降になります。
誠に勝手ではございますが、この1日は震災の被害に思いを馳せる日にしたいと思っております。
18日以降は普段と変わらず皆さんに楽しい話題を提供したいと思っておりますので、ご理解のほどよろしくお願いしますm(__)m
彼らの感覺は許せない思ひがしました。
でも自分自身を振り返ると、いまスマトラ沖の地震による津波被害の映像を見て、ひと事として捉へてゐる自分がゐます。
こればかりは直接、經驗した人にしかわからないことなんだと諦めてしまひます。
もう10年・・まだ10年。
あの經驗を自分に活かせるやうにしたいものですね。
それはひょっとすると、同じ体験をした人の間でもそうなのかも知れません。同じ体験でも受け止め方は人それぞれですから。
私自身、自分よりもっと辛い思いをされた方の気持ちが本当に理解できるとは思えません。
ただ、おそらく仙丈さんの心の中にも「大変なんだろうな」「困っているだろうな」という気持ちがあると思います。
被災された方の苦しみを全ては理解できなくても、苦しんでいることそのものを理解したり、受け止めたりすることはできますよね。
偉そうなことを申してしまいましたが、おそらく「被災者支援」というものは、そういう気持ちから始まるものではないか、私はそう考えています。
確かにわかることはできないだろうけれど、理解することはできますよね。そしてそれを伝えること。
あの日は第一報から見ていました。だんだん明らかになる様子に、娘を幼稚園に送っていった後はもうテレビの前で背筋が凍って呆然と座りつくしていました。今、ルパートさんの文章でまたあの感じを思い出しています。
私が東海出身で親譲りの地震嫌いというのもあるでしょうが、娘もまた地震に対して激しく神経質です。テレビ画面を通してさえ幼い子どもにもあの神戸の景色は深く心に刻まれたようです。
当事者でもない私が二番手で長々と失礼しました。明日1月17日5時46分30秒には黙祷させていただきます。
私はあの朝、急激な揺れで目を覚ましたが、家も部屋も無事で、祖父母・曾祖母・両親、弟たちも皆無事だったので、しばらくは事の重大さに気づいていなかった。
電気が復旧しテレビがついた時、家族全員で愕然とした。
父は、居間を片付け、家族のための安全スペースを確保した後に、登山スタイルに身を固め、弟と母を従え、バールを手に飛び出していった。
私は留守番を命じられた。精神的に耐えられないと見抜かれていた。
老いた曾祖母や祖父母は放ったらかしにした。逆に、ご飯やおやつをもらって励まされた。
阪神沿線のボロ文化住宅に住んでいた母方の祖母は、倒壊したアパートごと亡くなった。
しばらくして、遺品を探しに行った。ブロックが瓦礫の山になって祖母のマンションは跡形もなかった。余震の中、もぐりこんで遺品を探し出すのは恐ろしかった。
マスコミ勤務の叔父が震災直後から数日間、実家を拠点にして被災地を走り回り、記事を書いた。いい記事だった。
父の会社、私の大学と、上の弟の高校は大阪にあった。試験期間中で、休むわけにはいかなかった。
高架が落ちて分断された西宮北口に自転車で通い、電車に乗って通学した。駅から自宅に向かう道すがら、だんだん町並みが崩れていくのが怖かった。
水が復旧するまで、山の中の川まで水汲みに行き、ガスが復旧するまで大学の近くでお風呂を借りたこともあった。
母は気を紛らわすために、近くの小学校にボランティアに行った。私も手伝いに行ったことがあるし、ボランティアセンターに登録したこともあった。
人手も物資も足りていたけど…一番大切なものは足りなかった。
計画していた海外留学を諦め、バイトで気を紛らわせ、新学期になり、就職活動をすると、いつもと同じような毎日が始まった。
でも何かが違ってしまった。
大学の仲間でも、京都や大阪の人には震災の悲惨さが分かってもらえない。うざったいという反応を受けたり、「こんな時にこそ明るくしないと」と言われて感情的になり衝突したこともあった。
一年後の1月17日は、卒論を仕上げて出しに行こうと思っていたのが、一日、震災特番に涙を流して釘付けになっていた。
大阪で就職し、大阪に転居して何年もすると、こちらの人は震災のことなど「あん時は、ごっつい揺れたなあ」程度の認識しかないと気がついた。冷たいなあ、でもそんなもんだろうなあと、諦めた。
でも、新潟の地震が起きたとき、どこか他人事のように思っている自分の気持ちに気づいて愕然とした。
思い出したくない。でも忘れたくない。
うまく書けないけど、同じ経験をした人には通じる気持ちがあるはずです。
長々と失礼しました。
ラジオ関西が地元の役に少しでも立てるようがんばったようすが本になっていますが、天災や大事件のときはラジオだと私は確信しました、あのとき。
地縁のない根無し草の私は西宮に3箇所6年住みましたが、住んでいた六甲トンネル入り口脇の社宅が全壊だったことを人づてに知ったのは2年後でした。ほかの2箇所については情報ナシ、でも甲子園の社宅のほうは、一時期立入禁止区域になったように思います。
私の代わりに被害にあった人がだれなのかを知るすべもありません。
ライフライン復旧の報道をみはからい、西宮に今もいる友人の何人かとたくさんたくさん、震災の話をしました。
西宮市民だった私にとりあれは「神戸の震災」ではなく「西宮の震災」。そこから「東京の人」にも何かをかんじてほしいと思っていつもそう言っています。
理解すること。受け止めること。そして伝えること。これは、そうしようと思った人にこそできることです。かめちきさんのような方にこそ。
「人手も物資も足りていたけど…一番大切なものは足りなかった。」という言葉が何より身に沁みます。
あの時、被災地まで駆けつけてくれた人の心は、本当に美しかった。
でも、ほんの少し離れたところにいた人の中には、震災のことをただ鬱陶しいとしか思わない人がいたのも否定できない事実です。
細かくは申しませんが、私自身、それで少なからず悲しい思いをしています。
そういう話をしだしたらキリがありませんが、だからこそ、あの地震を体験した我々にできることがある。今はそう考えるようにしています。
「新潟の地震が起きたとき、どこか他人事のように思っている自分の気持ちに気づいて愕然とした。」そうおっしゃいますが、愕然とできることこそが、本当は素晴らしいことなのだと思います。
他人事のように思ってしまう、最初は誰でもそうです。ただ、そういう自分にハッとできる人は、そこから自分が被災した方々のために何ができるかと考えられるわけですから。
何ともまとまりのない話になってきましたが(苦笑)私が思うのは、こんなことです。
甲子園の社宅は(おそらく私の考えているもので間違いないでしょうが)、かなりの間立ち入り禁止になっていました。当時住まれていた方はかなりご苦労されたことと思います。
おっしゃるように西宮市民にとって、あれはまぎれもなく「西宮の震災」ですよね。同じように、「芦屋の震災」「尼の震災」、自分にとっての震災があるはずです。
そして同じように、山古志の震災、小千谷の震災、スマトラの震災、プーケットの震災、スリランカの私が名も知らぬ街の震災、それを体験している方々が今いるわけです。
そういう方に思いを馳せることの大事さこそを、「東京の人」に理解してほしいと心から願っています。
あのときの彼らの心無い発言は忘れられません。なんとなく教師というものに不信感を感じた瞬間でした。よく考えると随分遅いのですが(苦笑)。
父は大学時代+数年間を大阪で過ごした人で尼の競艇、西宮の競輪に足しげく通い(笑)、芦屋やら神戸やら、果ては「万博会場」でペンキ塗りのバイトをしたという、豪快と言うかガラの悪い男でした。関西を離れてからもしょっちゅう「ちょっと大阪(「東京」が往々にして「千葉」や「神奈川」をも指すように、関西一円は「大阪」なんです)行ってくる」と出かけていた父。そんな父が呆然とテレビにクギ付けになっていたのを思い出します。その年の春の「春分の日」(よりによって「サリン事件」の日、しかも父の誕生日でもありました)に「ちょっと大阪行ってくる」と出かけた父、神戸や西宮、尼崎にも足を伸ばしたようで、「えらい変わってもうとった」と語っていたのを思い出しました。