にわか日ハムファンのブログ記念館

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〔2012年夏・北海道・東日本パスの旅〕(2)函館市電で函館駅方面へ

2012-08-28 08:00:20 | さすらいブロガー旅情編
 関空からの飛行機は函館空港に無事到着。空港からは市電の始発駅である湯の川電停まで出て、函館市電に乗り換える予定である。
 バスがあれば良かったのだが、生憎見つからなかったので、電停まではタクシー利用を利用する。初乗りこそ大阪より安かったものの、その後運賃は短い間隔で100円刻みに上がっていく。思わず背筋が凍る。



 ともあれ、15分ほどでなんとか湯の川に到着した。
 函館市電は2番と5番の2系統のみ。番号が飛んでいるが、おそらく昔は1,3,4番もあったのだろう。実際、函館市電は過去に路線の廃止を繰り返しながら現在に至っている。
 残る2つの系統も、湯の川から大部分は同じ路線を走り、異なるのは数箇所の停留所のみ。どちらも函館駅前に行くので、まずはこの電車に乗ることになった。



 車内の吊り広告。ビール電車は各地の路面電車で定着した感がある。



 一方、全国各地の私鉄・公営路線で急速に増えているのがこの「鉄道むすめ」。こちらは函館市電の運転士、松風かれん嬢だそうだ。



 こんな感じで、関連グッズも売っている。
 ちなみに、もう1人の女性は「函館ハイカラ號」車掌の柏木ゆの嬢。「嬢」とはいかにも古臭いし、下手をするとジェンダーの観点で批判されかねないが、他に良い表現が思い浮かばないのでご容赦願いたい。



 さて、電車は市内の表通りをのんびり走り、函館駅前に着いた。さすがは函館、マンホールのフタもイカである。



 本来ならこの電停を通り越して終点まで行きたいのだが、そうすると時間に余裕がなくなるし、最悪次の電車に乗れなくなってしまう。
 ただ、函館駅前にいる分には、それはそれで時間が余る。なので、しばらく市電を撮ってみる。左側は9600形「らっくる号」。各地の路面電車で増えているノンステップの電車だ。



 らっくる号が函館駅前を発車すると、入れ替わりに古風な電車が入ってきた。先程の「函館ハイカラ號」だ。



 幸い、停留所2つ分ぐらいなら行って帰る時間はある。乗るとしよう。



 「函館ハイカラ號」は明治末期に製造され、千葉県で初めて運用されたのちに函館に渡って来た電車である。
 その後除雪用電車に改造、転用されたが、函館市制70周年記念事業の一環で旧来の姿に近い形に復元され、1993年から旅客営業に再び用いられるようになっている。
 当時の電車の常として、電停からの乗降口に扉はない。そのため、運転台は正面に窓こそあるものの、左右は吹きさらしである。



 その運転台の仕組み。通常の空気圧によるブレーキのほかに手ブレーキ(人力によるブレーキ)がある。現在からすれば空気式のブレーキは必須だが、製造当初は手ブレーキのみだったのかも知れない。



 電車はほどなく魚市場通電停に到着。もう少し乗っていたいが、予定上そうも言っていられない。ここで電車を見送ることにした。



 少しして折り返しの電車が到着。再び函館駅前に戻る。



 JR函館駅の駅舎は、かつての連絡船を模したであろう様式になっている。



 函館駅前のビル。新幹線の開業まであと少し。並行在来線の扱いやターミナルの移動、ローカル線の廃止問題も孕んではいるものの、少なくとも表面を見る限りでは新幹線歓迎ムードのようだ。



 函館からの電車に乗る前に、港に停泊中の摩周丸を撮影。実は10年ぶりの再会であるが、その時も外から見るのみだった。



 摩周丸の近くに展示されてあった、大雪丸の錨。青函連絡船の廃止からすでに年月が経ち、往時の船は、保存されていたものも含めて少なくなっている。



 津軽丸の錨と、蒸気機関車D51の動輪。函館がターミナルとして、おそらく最も賑わっていた時代の証人である。
 それから時代は移った。本州と北海道の往来の主役は、鉄道と連絡船から飛行機へと変わった。さらに青函トンネル開通によって連絡船は姿を消した。
 そして、新幹線の延伸によって、鉄道の玄関は函館から新函館へと移る。さらに新幹線が札幌まで開通すれば、函館という土地自体が、他の北海道の各地と同様の、通過点の1つとなることは避けられまい。
 時代は1つの街の栄枯に関わらず、冷ややかに移ろいゆく。ただ、その遺物だけが目の前に積み重なり、またこれからも重なりゆくのだろう。


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