
うさぎ島の夜が明けた。今日は午前中うさぎたちと触れ合ってから尾道に戻る予定だ。まずは朝食バイキングでしっかり栄養をつけた後、再びうさぎのごはんを入手して外に出た。

木陰で休むうさぎの大群。あらためてみると、ものすごい数である。

少しでも涼しげなところはうさぎだらけ。木の下にある白い洗面器には、うさぎの飲み水が入っている。
瀬戸内の島々の例に漏れず、大久野島も水に乏しい。川もなければ湧水もほとんどない。なので、島の各地にうさぎ用の飲み水を入れる洗面器や容器が置かれている。
野生化した大久野島のうさぎだが、実のところ、エサにしろ飲み水にしろ、人間が適度に関与する中で暮らしているのだ。

大久野島ビジターセンター。ここは大久野島や瀬戸内海の自然や生き物に関する展示があるほか、和紙作りの体験プログラム等が実施されている。
うさぎについてももちろん展示があったので見てみると、生存競争の厳しさをあらためて実感した。特に生まれたばかりのうさぎは他のうさぎに踏みつけられる危険もあり、大人になるだけでも難しいようだ。

……という展示を見た上で、あらためてうさぎに接する。相変わらずうさぎはエサをくれるとなると寄ってくる。そしてエサが終わると去っていく。エサの切れ目が縁の切れ目((c)ヨメ・ジョーンズ)である。
それは仕方ないとして、エサをやっていると、相変わらず体の小さなうさぎが除け者にされる。放っておくと同じうさぎばかりがエサにありつけることになるのだ。
このままではエサやりの意味があまりないので、妻と二手に分かれてエサをやることにした。一方が普通にエサをやっている間に、のけ者にされたうさぎにはもう一方がエサをやるのだ。
この方法は功を奏した。といっても所詮は自己満足ではあるが、少なくとも思っていた通り、より多くのうさぎにエサを与えることはできた。

ビジターセンターの向かいには毒ガス資料館が建っている。われわれが入館した時には、ちょうど団体の見学者が来ていたためか、ガイドの方が説明に出てきていた。
写真撮影が禁止だったので、中の様子は実際に行ってみていただくとして、当時使用していた設備や備品、施設で働いていた人の装備をはじめ、決して大きくはない館内にさまざまな資料が置かれている。

資料館の近くにある研究所跡。ここで毒ガスに関する研究調査が行われていたらしい。動物実験も行われていたようだ。

資料館の隣にある東屋。

かつて使われていた設備が一部展示されている。

防空壕跡。施設の幹部はそれぞれ個室があり、必ずその個室に逃げ込むことになっていたらしい。一般の作業員の扱いは、推して知るべしであろう。

資料館から再びビジターセンターの方角に向かい、砂浜沿いを歩いたところにある、自動交換機室跡。洞穴の中に機器が置かれていたのは、軍事上の理由だからだろうか。

さらに先には、毒ガス製造施設で亡くなった人々の慰霊碑が置かれていた。
毒ガスの製造過程では作業員が被害を受けて亡くなったり、後遺症に苦しむ事態が少なからず生じた。当時の医学では十分な治療もできず、犠牲者はただ苦しむか、その末に死に至るしかなかったそうだ。

慰霊碑の傍らには多くの千羽鶴が奉納されている。大久野島は平和学習で訪れる人も多い。

当時の竹原市長による平和宣言(フルサイズ画像)。
しかしそのたった10年後、日本が再び毒ガスの災禍に見舞われることになる。その毒ガスは、他ならぬ日本で作られたものだった。

海水浴場では、今日も多くの人々が水遊びに興じている。紛うことなき平和な光景である。
ただ、その光景を支えるものは、意外と脆いのかも知れない。平和がもたらされるまでの犠牲も、単なる過去の歴史になりつつある。

木陰で休むうさぎの大群。あらためてみると、ものすごい数である。

少しでも涼しげなところはうさぎだらけ。木の下にある白い洗面器には、うさぎの飲み水が入っている。
瀬戸内の島々の例に漏れず、大久野島も水に乏しい。川もなければ湧水もほとんどない。なので、島の各地にうさぎ用の飲み水を入れる洗面器や容器が置かれている。
野生化した大久野島のうさぎだが、実のところ、エサにしろ飲み水にしろ、人間が適度に関与する中で暮らしているのだ。

大久野島ビジターセンター。ここは大久野島や瀬戸内海の自然や生き物に関する展示があるほか、和紙作りの体験プログラム等が実施されている。
うさぎについてももちろん展示があったので見てみると、生存競争の厳しさをあらためて実感した。特に生まれたばかりのうさぎは他のうさぎに踏みつけられる危険もあり、大人になるだけでも難しいようだ。

……という展示を見た上で、あらためてうさぎに接する。相変わらずうさぎはエサをくれるとなると寄ってくる。そしてエサが終わると去っていく。エサの切れ目が縁の切れ目((c)ヨメ・ジョーンズ)である。
それは仕方ないとして、エサをやっていると、相変わらず体の小さなうさぎが除け者にされる。放っておくと同じうさぎばかりがエサにありつけることになるのだ。
このままではエサやりの意味があまりないので、妻と二手に分かれてエサをやることにした。一方が普通にエサをやっている間に、のけ者にされたうさぎにはもう一方がエサをやるのだ。
この方法は功を奏した。といっても所詮は自己満足ではあるが、少なくとも思っていた通り、より多くのうさぎにエサを与えることはできた。

ビジターセンターの向かいには毒ガス資料館が建っている。われわれが入館した時には、ちょうど団体の見学者が来ていたためか、ガイドの方が説明に出てきていた。
写真撮影が禁止だったので、中の様子は実際に行ってみていただくとして、当時使用していた設備や備品、施設で働いていた人の装備をはじめ、決して大きくはない館内にさまざまな資料が置かれている。

資料館の近くにある研究所跡。ここで毒ガスに関する研究調査が行われていたらしい。動物実験も行われていたようだ。

資料館の隣にある東屋。

かつて使われていた設備が一部展示されている。

防空壕跡。施設の幹部はそれぞれ個室があり、必ずその個室に逃げ込むことになっていたらしい。一般の作業員の扱いは、推して知るべしであろう。

資料館から再びビジターセンターの方角に向かい、砂浜沿いを歩いたところにある、自動交換機室跡。洞穴の中に機器が置かれていたのは、軍事上の理由だからだろうか。

さらに先には、毒ガス製造施設で亡くなった人々の慰霊碑が置かれていた。
毒ガスの製造過程では作業員が被害を受けて亡くなったり、後遺症に苦しむ事態が少なからず生じた。当時の医学では十分な治療もできず、犠牲者はただ苦しむか、その末に死に至るしかなかったそうだ。

慰霊碑の傍らには多くの千羽鶴が奉納されている。大久野島は平和学習で訪れる人も多い。

当時の竹原市長による平和宣言(フルサイズ画像)。
しかしそのたった10年後、日本が再び毒ガスの災禍に見舞われることになる。その毒ガスは、他ならぬ日本で作られたものだった。

海水浴場では、今日も多くの人々が水遊びに興じている。紛うことなき平和な光景である。
ただ、その光景を支えるものは、意外と脆いのかも知れない。平和がもたらされるまでの犠牲も、単なる過去の歴史になりつつある。
わざわざ個室にしているのは退避場所を強制的に分散させることで全員死亡の事態を避けるのが目的です。小さな島では地下深くに防空壕を作ることができないし。
危険物を扱っているので指揮官がいなくなることを避けるのが最優先ってことですね。
個室があっても防空壕自体は一緒なんですよね。
となると、一撃で全員が死亡する可能性もあるんじゃないかなぁと。
ちなみにガイドの方は「万が一幹部が爆撃で死んだ場合、
個室の場所から誰が死んだのか分かるようにするのが目的」
と語ってましたが、これもどうなのかなぁと。
「戦争であっても治療法の無い兵器は使わないで下さい」と
マルセル・ジュノーが訴えていたという話を高校生の時に
倫理の授業で習いました。
当時の日本軍がいかに無謀だったかを感じます。
そもそも当時日本は批准してなかったために、大久野島での生産が可能になったようです。
ただ、当時製造された毒ガスの後始末はまだ終わったとは言えませんし、
軍事上の利益をはるかに上回る禍根を残したと考えざるを得ませんね。
大量破壊兵器は、得てしてそういうものなのかも知れませんが。