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高野を登る

2010年10月25日 | 和歌山の事
「高野山」

世界遺産になってからは、国際的に有名になりましたね。

ガッツリ撮ってきた写真の一部をお見せしますね~~。



高野山町石道(こうやさんちょういしみち)
この道を少々ですが歩いてきましたよ。雨が降る前で良かった!!

国指定の史跡(1977年〈昭和52年〉7月14日指定)[1]。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産「参詣道」の一部として登録されています。

後ほど紹介しますが、奥の院に奉納されている大きな供養塔や墓石。
この道でどうやってあの巨大な岩を運んだのか?想像するだけで面白い。



ファインダーを覗きながら後ろ向き歩きでモデルさんを撮っていたら、崖に落ちました(T_T)
道に伸ばした腕が引っかかって良かった。



「袈裟がけ岩」
弘法大師が袈裟を掛けられたといわれており、この石から先は 高野山の清浄結界となる。
袈裟を掛けただけで言い伝えになるとは…
ここの岩の間を通り抜けれればいいことがあるとか…

 


「押し上げ岩」
高野山は明治時代まで女人禁制でした。弘法大師の母君、阿刀氏はある日、禁を破って五十四町石あたりまで登山してきました。ここより先は入れませんよと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。

そこで大師は石に袈裟をかけ「ここを越えられますか」と告げます。言葉どおり母が飛び越えようとすると突如雷鳴がとどろき、火の雨が降ってきました。

驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、その影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手形が残っているといわれており、ここからが高野山の清浄結界とされるそうですよ。




「ねじ切り岩」
で、難を逃れた弘法大師の母親は、この場所(押し上げ岩より数メートル手前)まで引き返し、高野山に上がれなかった口惜しさに、この場で石をねじ切ったと言われています。 どのくらいの岩だったのか解りませんが…
その石自体は何処にあるかは解らず、石碑だけがあるそうです。
それよりも、弘法大師一家は怪力の持ち主ばかりなのか… 
あくまでこういった云われをつけて、弘法大師の偉大さを広めるためのお話なんだろうかと…

で、登りきったところが



「金剛峯寺大門」
町石道、有田道、龍神道の合流点にある高野山の表玄関です。高さ25.8mは日本では最大級で、門の両側には運慶の流れを汲む江戸時代の仏師、法橋運長と康意の作による金剛力士像が立っています。





「女人堂」
高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。
明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。
現在の女人堂は唯一現存する建物だそうです。


と、まぁ撮影した順番は色々ですが、解りやすくルートにそってご紹介しようと思います。


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