縄文人の反乱 日本を大事に

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●広開土王碑●任那日本府(みまなにほんふ)●任那(みまな、にんな)●倭●大和

2013年12月03日 20時35分23秒 | 色んな情報

●広開土王碑●任那日本府(みまなにほんふ)●任那(みまな、にんな)●倭●大和
●広開土王碑には、古代の朝鮮半島を日本が支配していたことを示す記述がある。http://p.tl/atrq
 
●広開土王碑  http://p.tl/RbQj
 広開土王碑とは、現代も中国吉林省に立っている、高句麗の第19代の国王、広開土王の功績を記した石碑のこと。 まず、どこにあるのか地図で示そう。 △現在では中国国内にあることが分かる。 □広開土王・こうかいどおう…374~413…は、好太王とも永楽太  ...
 
●高句麗広開土王碑 - nifty http://p.tl/NTE1
高句麗広開土王碑は改竄されたか by T. 【はじめに】. 『東アジアの古代文化を考える会』が設立されたのは1972年11月のことだったと、事務局長だった故鈴木武樹氏の『わたしの古代教室』(新人物往来社、1974年)を読み返してわかりました。
 
●真面目に韓国考察(資料編) - FC2  http://p.tl/rjdC
 広開土王碑には、古代の朝鮮半島を日本が支配していたことを示す記述がある。
 韓国はこれを認めたくないがために、日本軍が改竄したと叫んでいるが、日本が行く以前に中国人によって拓本が取られていたことで、日本による改竄がない、正真正銘の記述であることが証明された。
 韓国がどう言おうと、間違いなく古代の朝鮮半島には日本が進出していたのである。
 
●任那日本府(みまなにほんふ)http://p.tl/minY
『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済や倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。
下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、ヤマト王権(大和朝廷)に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと見られている。
 1.『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在する。
 2.『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている[注釈 1][注釈 2]など、朝鮮半島での倭の活動が記録されている。
 3.新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと[注釈 3]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している[注釈 4]。
 4.幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されているが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である[注釈 5]、[注釈 6]、[注釈 7]。
 5.宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述している。
 
●任那(みまな、にんな、369年[要出典](~400年) - 562年)は古代に存在した朝鮮半島南部の地域。
http://p.tl/znQ1
朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと主張する説もある(後述)。

後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。

第二次世界大戦後、次第に政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていたが、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。
●語源と読み
任那の語源については、『三国遺事』所収の『駕洛国記』に見える首露王の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae)を転写したものとする鮎貝房之進の説が日本の学界では主流を占める。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。
 
●狗邪韓国(くやかんこく)http://p.tl/5L47
3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した倭国内の領域政権。狗邪韓国の成立時期は不詳。中国の正史「三国志」「後漢書」に登場する。

狗邪韓国(くやかんこく)は任那(みまな)や加羅との関連性が指摘されている。(加羅を参照)
 
●魏志倭人伝(ぎしわじんでん)http://p.tl/_Ilt
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称[1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた
 
●『魏書』(ぎしょ)http://p.tl/lbWy
中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。
 
●東夷伝(とういでん)http://p.tl/91VM
中国の史書の中で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれた伝(記述)。
周代以前の「夷」とは現在の江蘇省や山東省周辺に居住していた民族を差していたとされているが[1]、史書が編纂された時代において「夷」は消滅しており、中華世界の東に居住していた諸民族を指して「東夷」と呼んでいた。主に韓,倭(朝鮮,日本)を差すことが多い。

中国の正史の中では二十四史の中の『後漢書』から『新唐書』の間に東夷伝が出てくる(東南夷伝、蛮夷伝となっているものもある)。中でも、『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)は特に有名。
 
●倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、http://p.tl/j_Rt
1.紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
2.奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
※「大和」を参照のこと。
 
・「日本」の前身としての「倭」[編集]「倭国」および「倭人」も参照
倭および倭人の指し示す範囲は時代と研究によって変遷する。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。倭国は「大倭国」「大和国」とも呼称され、7世紀後半には国号を日本に改めた。 中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。

・「大和」の前身としての「倭」[編集]「大和」も参照

奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。

8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。

737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして、752年(天平勝宝4年)もしくは757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』である。
 
●倭国(わこく)http://p.tl/oTEk
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国は、当時、日本列島にいた人を倭人(わじん)と呼んでいたが、その倭人による政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねるという語義の漢字「倭」を用いた呼称が倭国である。 漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
 
●大和(やまと)http://p.tl/Zbii
日本の異名。大倭・大日本(おおやまと)という雅称も指す。大和政権が五畿の一つ大和(現在の奈良県)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は2字用いることが定められ[1]、倭と通じる和の字に「大」を冠して「大和」と書くように取り決められた
・大和の範囲
元々は大和王朝(ヤマト王権)の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、大和王朝が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。さらに支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。

令制国の大和は大和国を参照。
・「やまと」の語源は諸説ある。
 ・山のふもと(→倭参照)
 ・山に囲まれた地域であるからと言う説
 ・この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
 ・「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
 ・「やまと」は元は「山跡」とする説。
 ・三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
 ・邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
 ・「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。[6]
 ・アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。
 ・ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説
 
●日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本(にっぽん、にほん)http://p.tl/8Si0
日本列島及び周辺の島々を領土とする国家である。
 
●国号
日本の日の出(三重県伊勢市 伊勢神宮・宇治橋)「日本」という漢字による国号の表記は、太陽崇拝と相俟った中央集権的発想に基づくもの、また日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。
近代の2つの憲法の表題は、「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」ないしは「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。
 
●由来
「日本」の表記が定着する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国・倭」と称される国家があった。
『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。
「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。
『旧唐書』は、「倭国」と「日本国」を併記した上で、日本国は倭国の別種とし、倭国が日本国に改名した可能性と元小国の日本が倭国を併合した可能性について記している。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は劉徳高や郭務悰、司馬法聡らの使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。

具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。

(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。

(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている
 
●本当の半島の歴史  http://p.tl/f1K3
つまり、古代から半島人は嘘つきで、シナ人・朝鮮人は古代から魔族とでも表現すべき種族だったのです。 ... その間に除福などのユダヤ人や、シルクロードの交易で利益を得ていた技術集団・秦氏が、半島を経由せずに船で日本に渡来する。 ... 倭人は半島の民族から様々なことを教えられたどころか、半島に初めて統一国家を築く新羅の基礎づくりを指導したのは、実は ...... つまり、新羅を主戦場とした倭と高句麗の対決は-少なくとも新羅の立場から見れば-広開土王碑が示すような“高句麗の圧勝”ではなかったのだ。


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