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●大東亜戦争

2012年12月10日 19時35分15秒 | 色んな情報
●大東亜戦争
★だいとうあ-せんそう【大東亜戦争】
太平洋戦争をいう当時の日本側での呼称。
★【大東亜戦争】(だいとうあせんそう) 航空軍事用語辞典++ http://p.tl/BkeW
太平洋戦争の当時の日本での呼び名。
植民地として欧米に搾取され続けていたアジアを開放し、独立させる事を名目とした。
詳しくは太平洋戦争項を参照。
当初は「解放者」として歓迎されていた向きもあったが、日本軍の戦局悪化と共に「新たな支配者」という感情に代わりつつあり占領統治に失敗する。
しかし大東亜戦争後、戦勝国であった欧米はアジアでの植民地を次々と失い、アジアの各国は独立を迎えている。
必ずしも旧日本帝国を正当化することは出来ないが、日本は「名目上」において、戦略的勝利を収めたと言えるかもしれない。
  関連:第二次世界大戦

★大東亜戦争 http://p.tl/upZL(だいとうあせんそう、旧字体:大東亞戰爭、英: Greater East Asia War)
日本(大日本帝国)がアメリカ合衆国やイギリス、中華民国などの連合国と行った戦争。
本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。

★大東亜共同宣言 http://p.tl/yrTj(だいとうあきょうどうせんげん、大東亜宣言とも。本来の表記は大東亞共同宣言)
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された共同宣言。
・作成の経緯
本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる。これと別途並行して大東亜省は大川周明や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。
日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。

★大東亜会議(だいとうあかいぎ) http://p.tl/W_f8
1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。
日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による「大使会議」が開催された。
この会議は重光葵外相によって発案され、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議である。
「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧がある一方で、タイ王国代表ワンワイタヤーコーンが、その演説の中で大東亜共同宣言案への修正提案が拒絶されたことに対する婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、インドネシア代表が会議に参加できなかったことへの不満を述べるなど、ある程度の緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。
日本の敗戦後における(戦勝国の連合国による)一般の認識としては「会議は東條首相による操り人形たちの集まり」とされている。
一方で、「大東亜共同宣言はイギリスとアメリカが提唱した大西洋憲章に対抗することを目指していた」という評価もある
・参加国
大東亜会議当時に独立していた各国が参加した。インドは独立国家として承認されていなかったためオブザーバー参加であったが、会議後には日本を始めとする諸国によって独立国家として承認された。
・日本:東條英機内閣総理大臣(大東亜共同宣言中には「大日本帝国」ではなく「日本国」と表記されている)
・中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長
・満州国:張景恵国務総理大臣
・フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領
・ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣
・タイ王国:ワンワイタヤーコーン親王
・インド:インドからは、日本と協力しインド全土のイギリス(イギリス領インド帝国)からの完全独立を目指していた自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが参加した。
日本側の出席者は東條の秘書官・浜本正勝が主席通訳を務めた。また、イギリス領マライやオランダ領インドネシアは会議当時は日本軍の占領下であったがいまだ独立を果たしていなかったので参加していない。仏領インドシナは日本と友好関係にあるフランスヴィシー政権の植民地であったため同様に参加していない。

★大東亜省(だいとうあしょう) http://p.tl/FYPS
日本政府(大日本帝国)がかつて設置した機関(省)のひとつであり、その目的は、同国の委任統治領であった地域、及び第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))において同国が占領した地域を統治することにあった。

★八紘一宇(はっこういちう) http://p.tl/tzqK
『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」から作られた言葉で、大意としては天下を一つの家のようにすること。転じて第二次世界大戦中に大東亜共栄圏の建設の標語のひとつとして用いられた。

★皇国史観(こうこくしかん) http://p.tl/jpgu
日本の歴史が皇室を中心に形成されてきたことに着目し、「日本民族」の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想である。

★万世一系(ばんせいいっけい)http://p.tl/mHJG 永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統についていう

★皇国  http://p.tl/QJ2S
・日本、特に大日本帝国の別名。
・ツァーリ国の別名だが、一般的に用いられることは稀。

★ツァーリ国  http://p.tl/lz7E
ツァーリを君主として戴く国家をツァールストヴォ(英語: Tsardom ;ブルガリア語: Царство ;ロシア語: Царство)と呼ぶ。日本語訳は「王国」または「帝国」とする場合が多いが、本来はツァールストヴォはこれらとは別の国家体制である。ツァーリの称号がヨーロッパ世界において特殊な位置付けであるため、帝国・王国・大公国・公国といった既存の序列とは趣の異なる国家として規定されている。
一部の文献では、ツァールストヴォを指してツァーリ国あるいは皇国という翻訳を用いることがある。
ツァールストヴォと呼ばれる国家は、ツァーリ(ツァール)を君主号として用いた第二次ブルガリア帝国や第三次ブルガリア帝国(ブルガリア王国)と、1547年から1721年の間のロシア・ツァーリ国であ


★大日本帝国 http://p.tl/M9v3(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、大日本帝國)
日本国の国号呼称の一つ。1868年(明治元年)の明治維新の前後から使用し始められ、1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時、あるいは1946年頃まで公式に使用された。
一般には1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時に憲法典の名称として使用されたことから権威づけられ、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつとされる。
1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの77年半の日本の歴史的時代を表象する国号として指すこともある。
最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。
以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法下の日本について記述する。

★日本帝国主義 http://p.tl/yExq(にほんていこくしゅぎ、英語: Japanese imperialism、日帝)
日本における帝国主義のこと。
通常は明治から第二次世界大戦終結までの、いわゆる「大日本帝国」における、軍国主義、植民地主義、覇権主義、膨張主義などの思想・運動・政策・体制を指す。
また第二次世界大戦後の日本に対しても、同様の傾向があるとの立場から使われているほか、共産主義の立場から日本における帝国主義論の用語としても使われている。


★大日本帝国憲法 http://p.tl/2ABt(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)
1889年(明治22年)2月11日に発布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法[1]。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。
短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けばアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間[2]、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、第73条の憲法改正手続に基づき改正され、翌5月3日に日本国憲法が施行された。

★天皇主権(てんのうしゅけん) http://p.tl/-_72
大日本帝国憲法において、天皇が保持する主権。西洋の君主主権を日本に適用した内容である。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主体説という

★天皇制ファシズム http://p.tl/vM_b(てんのうせいファシズム)または日本ファシズム
第二次世界大戦終結までの日本の社会、体制などが「ファシズム」の1種であったとする視点による用語。1946年からの丸山眞男による「日本ファシズム論」などがある

★皇民化教育(こうみんかきょういく) http://p.tl/MkxL
大日本帝国の支配地域において、主権者である天皇への忠誠を要求した教化政策、同化政策。内地・外地を問わず用いられる。皇民化政策、皇民化運動とも言う。

★教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご) http://p.tl/bvE3
明治維新以後の大日本帝国で、政府の教育方針を明記した勅語である。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日渙発、1948年(昭和23年)6月19日廃止。

★宮城遥拝(きゅうじょうようはい) http://p.tl/pXau
日本、大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝)する行為である。遥拝する場所は、日本国内(内地)、外地、外国を問わず用いられている。皇居遥拝(こうきょようはい)とも言う。
天皇への忠誠を誓わせる運動の一つであり、君が代の斉唱、日の丸の掲揚、御真影への敬礼と共に、宮城遥拝も盛んに行われた。特に第二次世界大戦中には、天皇に忠誠を誓い、日本国民の戦意の高揚を図る目的で、宮城遥拝の動きは頂点に達した。

★天皇制ファシズム(てんのうせいファシズム)または日本ファシズム http://p.tl/Nmzh
第二次世界大戦終結までの日本の社会、体制などが「ファシズム」の1種であったとする視点による用語。1946年からの丸山眞男による「日本ファシズム論」などがある

★アジア主義 http://p.tl/_5Ua(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)
日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。

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