江戸時代の禅僧、白隠はたくさんの僧や人々に法を説いていました。
その中に、さつというひとりの老婆がおり、たいへん熱心に法を聞いており、白隠からも認められていました。
ある日、さつさんの孫が、幼くして亡くなりました。
可愛がっていた孫の死に、さつさんの悲しみはたいへん深く、お葬式の場で人の目も気にせずに大泣きをしました。
あまりの悲しみ様に、ひとりの人がさつさんに言いました。
「おさつさん、白隠禅師に認められているあなたが、そんなに泣いては禅の悟りも無意味になるんじゃないか」
するとさつさんはすかさず
「私の流している涙は普通の涙ではありません。真珠の涙を流しているんです。」と答えたということです。
「目に入れても痛くない」と比喩されるほど孫は可愛いと言われます。
禅は、喜怒哀楽の感情を押し殺してしまうことだと思われているようですが、そうではありません。
悲しいときには悲しみ、悲しみの真珠の涙を流すことが、禅の心なのです。
その中に、さつというひとりの老婆がおり、たいへん熱心に法を聞いており、白隠からも認められていました。
ある日、さつさんの孫が、幼くして亡くなりました。
可愛がっていた孫の死に、さつさんの悲しみはたいへん深く、お葬式の場で人の目も気にせずに大泣きをしました。
あまりの悲しみ様に、ひとりの人がさつさんに言いました。
「おさつさん、白隠禅師に認められているあなたが、そんなに泣いては禅の悟りも無意味になるんじゃないか」
するとさつさんはすかさず
「私の流している涙は普通の涙ではありません。真珠の涙を流しているんです。」と答えたということです。
「目に入れても痛くない」と比喩されるほど孫は可愛いと言われます。
禅は、喜怒哀楽の感情を押し殺してしまうことだと思われているようですが、そうではありません。
悲しいときには悲しみ、悲しみの真珠の涙を流すことが、禅の心なのです。