禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

気持ち1

2014年12月23日 | 小さな法話

「気持ちがあれば・・・」
気持ちがあればそれでいい・・・のでしょうか?
それは、本当に気持ちがあることになるのでしょうか?
気持ちがあればという、いいわけではないでしょうか?
できないことをすることはできませんが、できることをするのが気持ちからでた行動ではないですか。
たとえ、立派なことであろうとなかろうと、自分のできることをしっかり行っていくことが、気持ちを表しているのです。

諸悪莫作2

2014年12月22日 | 小さな法話
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」を七仏通誡偈と言います。
お釈迦さまのみならず、諸仏がみな同じように説いている「普遍の真理」というべき教えです。
道元禅師はこれを、「菩提のことば」として悟りの境地を示したものであると説かれています。
「悪をなさず」というのは、誰かに言われての行動ではなく、自らの行動となります。
そうすると、諸々の行動がすべて、「悪をなさず」という方向に向かっていくのです。
これが日々続くことが、私たちの「毎日」になるのです。

諸悪莫作1

2014年12月21日 | 小さな法話
唐の代表的な詩人に白居易があげられます。
エリートコースを歩んでいましたが、身内の不幸に儒教では解決しがたい人間の「死」の問題に直面し、仏教などを学びました。
その後左遷にあった白居易は杭州に赴任します。
その地で、木の上で坐禅をする禅僧、鳥彙道林(ちょうかどうりん)禅師に出会います。
白居易は、木の上で坐禅している道林禅師に「禅師の住処、甚だ危険なり」と言いました。
ところが、「あなたのほうが、もっと危険ですぞ」と道林禅師は即答しました。
白居易の俗なる世界の危うさを指摘されて、白居易は返す言葉もありません。

そこで、白居易はこう尋ねます。
「仏法の大意とはいかなるものか」
その答えが「諸悪莫作・衆善奉行」(悪いことをしないで、善いことをせよ)でした。
「そんなことは三歳の子供でも知っていることです」と返す白居易に、
道林禅師は「三歳の子供でも知っていても、八十の老人でさえこれを実行することはむずかしい」と応じるのです。

くう

2014年12月20日 | 小さな法話
雪が降る季節となって、薔薇に花がひとつもなくなりました。

仏教では、「空」を説きます。
「般若心経」というお経は、「空」を説いたお経です。
すべてのものは原因があって結果があります。

薔薇の花も、薔薇があってこそ咲くことが出来るのです。
咲くには、水をはじめとした養分も必要ですし、気温も必要です。
太陽の光なくして咲くことはできません。
いろいろな要素が重なり合って、咲くのです。

咲ききれば、枯れていきます。
花は自分で咲いて自分で枯れる存在ではないということです。
これを「空」と言います。
薔薇の花がなくなったのも「空」なのです。

余情残心

2014年12月19日 | 小さな法話
『余情残心』という言葉があります。
茶道の言葉で、茶事を終えてお客さまが帰られた後、お客さまが見えなくなるまでお送りし、
きょうの残り湯で亭主がお茶をたて、今日の茶事を振り返るというものです。
お客さまが帰られたとたんに片付け始めたり、声をはりあげて話をしたりしないということです。

今日と同じ出会いは二度とありません。
一期一会を大事にする、そういった一日を送ることが、
「自らの事より人のことを思いやる」気持ちにつながるものです。