ばあちゃん、耳が悪いのと、物忘れが若い時からひどくて、2006年当時、すでに言われていたであろう認知症と、どうとらえていいのかよくわからなかった。
「プロローグ(1)八高線毛呂駅」から、ここまでは、もの凄くゆるい下り坂の動く歩道(そんなのないか(笑))の上を歩いているみたいなもんだった。
それが2006年4月の中旬以降、ばあちゃんの具合が急に悪くなったので、認知症なのか~?とようやく疑わざる負えなくなっていった。
後に医師の診断を受け、慢性硬膜下血腫と言われて、点と点がつながって線になった訳だが、その前に、いろいろ変な事が起り出し、私たちには、自分の居る場所が何なのか、何処なのか、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、わかりようがなかった。
ここから先は対数曲線を0に向かって(例えが悪いか?)滑り降りるみたいなもんで、あたふたするばかりだ。その「あたふた」振りを当時書いたものでたどってみたい。
でも、考えてみると、あの時は、ちょっと急な別の曲線に乗り換えただけだったんだなあ。すぐ元に戻れた。続きの戻ることのできない本当の急坂はこの10年後にやってくる。
「プロローグ(1)八高線毛呂駅」から、ここまでは、もの凄くゆるい下り坂の動く歩道(そんなのないか(笑))の上を歩いているみたいなもんだった。
それが2006年4月の中旬以降、ばあちゃんの具合が急に悪くなったので、認知症なのか~?とようやく疑わざる負えなくなっていった。
後に医師の診断を受け、慢性硬膜下血腫と言われて、点と点がつながって線になった訳だが、その前に、いろいろ変な事が起り出し、私たちには、自分の居る場所が何なのか、何処なのか、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、わかりようがなかった。
ここから先は対数曲線を0に向かって(例えが悪いか?)滑り降りるみたいなもんで、あたふたするばかりだ。その「あたふた」振りを当時書いたものでたどってみたい。
でも、考えてみると、あの時は、ちょっと急な別の曲線に乗り換えただけだったんだなあ。すぐ元に戻れた。続きの戻ることのできない本当の急坂はこの10年後にやってくる。
(以下、父=じいさん=父親、母=ばあちゃん=母親)
2005.4月頃
半年ぐらい前に預金通帳がないと騒いでいたが、箪笥の上においてあるのを父がみつけた。母にきいても、知らないという。
2006.3.2(木)
母の保険証(カード)がなくなったと、父と母が騒いでいる。先週受けた貧血の検査を今日聞きにいく予定だったのだが、そのカードを母がどこに置いたか、わからないと。
結局、いつも置かないようなところにあるのを父がみつけた。保険証がカードに代ったという意味が理解できていないようで、大事なものと思い通帳などと一緒にしまったのか?
2006.3.15(水)
自彊術の年度末の食事会に出席するとのことで、本当は帰宅が遅れるはずだったが、父が、食事会は今日ではなかったらしく、11時ごろに帰ってきたと言う。 母の勘違いだったんだろうと、母にも直接尋ねてみたが、母にはよくわからないようだった。その時は、母の顔に異常は感じられなかった。
(このころ市民サークルでやっている自彊術に通っていた)
2006.3.16(木)
昼食のとき、父が弁当を買ってきたので、いつでも都合のいいときに食べないか、と私(学校は試験休みで家にいたか?)に言ってきたので、下におりっていてみると、目の前に座っている母の顔の左目あたりが、ひどくはれていることに気付いた。どうしたのかと聞いてみると、きのう、体操(自彊術)からの帰りにころんで、顔をぶつけたという。朝も、気づかなかったし、急になったように感じたので、ちょっと奇異に感じた。
夕食時、かなり腫れがひどくなってきたので、そのことをまた聞いてみたが、やはり転んだとのこと。目のまわり、腫れている部分に多少に痛みを感じるが、そんなにひどくはないという。左目の見え方は、問題なさそうだ。傍目にみて、ちょっと痛いという程度ではないようにみえる。恐らく、自分では感覚がにぶくなってきていて、痛みを感じないのではないか。
その時は、明日、とにかく医者にいくということにした。どこにいったらいいのか。外科か?内科か? 母が眼科はどうなのか、この辺だとどこにあるのかと、聞くので、私が駅の近くにある眼科に連れて行くことにした。
少したって、父が風呂から上がってくるときに、母との話で、撲られたのではないかと言っているのが聞えて、もしかしたら、誰かに殴られ、金品でも取られた? 下におりると、母は横になっていた。具合がわるいのか?聞いてみても、大丈夫だというだけ。ちょっとおかしいので、きのう、誰かに襲われたのではないか?何か盗まれていないか?ときいたみたが、そんなことはないと言う。体操の時にいつも持っていく道具を一応、調べてみたが、財布はあるし、手提げもよごれているようではなかった。
気分は悪くないが、風呂には入りたくないと言う。何かおかしいので、今夜は様子を見て、父が明日、近くの医院(外科)に連れて行くことにした。
(この医院は、そのころじいさんが腰の治療に超音波だかをかけに日常的に行ってたところ。じいさんが連れて行った。レントゲンを撮って異常なし。その他、特別な注意なども受けなかったようだ)
( 「2 119番」の写真のように、3月下旬には顔のあざも治って、しばらく、こんなことは忘れていた。それが・・・)
2006.4.16(日)
夕食後のデザートにイチゴを食べることになっている。母が自分で用意して冷蔵庫にいれて、忘れないようにイチゴ用のスプーンをテーブルの上に出してある。それなのにそれを忘れ、目の前にあるみかんを食べようとする。そうじゃない、イチゴを食べるんじゃないのかと、注意すると一端はおさまるが、またすぐ、みかんを食べたらどうだと言い出す。
2006.4.18(火)
夕食が終わって、足が痛くて立つことができないと言う。私が後から抱えて起そうとしたが、痛くてだめだと言う。
2006.4.19(水)
午後、1人で買い物に出かけて行ったのだが、帰ってきて、疲れたといって横になっていた。どこに行ったのか、聞いてもわからない。
2006.4.20(木)
今日は、午前中は自分で動くことが出来たようだ。しかし、よろよろしている。午後、1時過ぎに、お使いに出かけると言う。どうみても外にでられそうにないので、今日は買うものはないからと言って、止める。足が痛くて、座れなくて、ずっと台所で立っている。
夕食の支度をするのに、後ろから見ていて、だんだん足で身体を支えられなくなり、流しに寄りかかりながら、足が曲がってくるのがわかる。倒れそうになったので、椅子にすわらせる。夕食も、椅子に座りながらとる(そのころ脚の低いテーブルで座って食べていた)。
(この時まで、私が、じいさんはもとより、ばあちゃんのことに介入する事は全くなかった。それは、恐らく、じいさんがいやがるだろうし、じいさんがやるべきことだと思っていたからだ。ところが、ここ何日で、ばあちゃんの認知面での具合が急変しているのに、じいさんが動こうとしない。ここでさすがに悟った。じいさんは優柔不断で決断力、実行力ないダメなやつだと。この時、じいさんを完全に見限った。以降、家のことをほとんど私が決めていく。今思うと、これがわたしのボッチ介護の始まりだった。その時は、まだ、ある人物(こいつが、じいさんに輪をかけようなダメなやつだった。それがわかるのはずっと後)を信頼していたので、1人でやるはめになるとは思っていなかったが。私が認知症の病院にばあちゃんを連れて行くとじいさんに告げた。すると、じいさんがしぶしぶ、自分で何とかすると言って)
父が、いつも自分で通っている外科の医院から、隣の市にある、この辺では大きな〇✕△病院の紹介状をもらってきた。
(それで、そこに連れて行こうという矢先だった 翌21日の朝、どん と。「1 どん から始まる」へ)
写真は、「2 119番」の写真とほぼ同じ、一連のうちの一枚。3月30日に撮ったもの。左目の腫れが引いているのがよくわかるかと(他に写真がなかっただけだが)。
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でも、ころんで頭を打ったとしても、その時はなんでもなく、次の日から腫れてくることがあるだろうか? これを書いていて気付いたんだが、もう確かめようもないね。