17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

4 ボッチ介護の始まり

2025-02-28 10:30:04 | 介護
ばあちゃん、耳が悪いのと、物忘れが若い時からひどくて、2006年当時、すでに言われていたであろう認知症と、どうとらえていいのかよくわからなかった。

「プロローグ(1)八高線毛呂駅」から、ここまでは、もの凄くゆるい下り坂の動く歩道(そんなのないか(笑))の上を歩いているみたいなもんだった。

それが2006年4月の中旬以降、ばあちゃんの具合が急に悪くなったので、認知症なのか~?とようやく疑わざる負えなくなっていった。

後に医師の診断を受け、慢性硬膜下血腫と言われて、点と点がつながって線になった訳だが、その前に、いろいろ変な事が起り出し、私たちには、自分の居る場所が何なのか、何処なのか、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、わかりようがなかった。

ここから先は対数曲線を0に向かって(例えが悪いか?)滑り降りるみたいなもんで、あたふたするばかりだ。その「あたふた」振りを当時書いたものでたどってみたい。

でも、考えてみると、あの時は、ちょっと急な別の曲線に乗り換えただけだったんだなあ。すぐ元に戻れた。続きの戻ることのできない本当の急坂はこの10年後にやってくる。


(以下、父=じいさん=父親、母=ばあちゃん=母親)
2005.4月頃
半年ぐらい前に預金通帳がないと騒いでいたが、箪笥の上においてあるのを父がみつけた。母にきいても、知らないという。

2006.3.2(木)
母の保険証(カード)がなくなったと、父と母が騒いでいる。先週受けた貧血の検査を今日聞きにいく予定だったのだが、そのカードを母がどこに置いたか、わからないと。

結局、いつも置かないようなところにあるのを父がみつけた。保険証がカードに代ったという意味が理解できていないようで、大事なものと思い通帳などと一緒にしまったのか?

2006.3.15(水)
自彊術の年度末の食事会に出席するとのことで、本当は帰宅が遅れるはずだったが、父が、食事会は今日ではなかったらしく、11時ごろに帰ってきたと言う。 母の勘違いだったんだろうと、母にも直接尋ねてみたが、母にはよくわからないようだった。その時は、母の顔に異常は感じられなかった。
(このころ市民サークルでやっている自彊術に通っていた)

2006.3.16(木)
昼食のとき、父が弁当を買ってきたので、いつでも都合のいいときに食べないか、と私(学校は試験休みで家にいたか?)に言ってきたので、下におりっていてみると、目の前に座っている母の顔の左目あたりが、ひどくはれていることに気付いた。どうしたのかと聞いてみると、きのう、体操(自彊術)からの帰りにころんで、顔をぶつけたという。朝も、気づかなかったし、急になったように感じたので、ちょっと奇異に感じた。

夕食時、かなり腫れがひどくなってきたので、そのことをまた聞いてみたが、やはり転んだとのこと。目のまわり、腫れている部分に多少に痛みを感じるが、そんなにひどくはないという。左目の見え方は、問題なさそうだ。傍目にみて、ちょっと痛いという程度ではないようにみえる。恐らく、自分では感覚がにぶくなってきていて、痛みを感じないのではないか。

その時は、明日、とにかく医者にいくということにした。どこにいったらいいのか。外科か?内科か? 母が眼科はどうなのか、この辺だとどこにあるのかと、聞くので、私が駅の近くにある眼科に連れて行くことにした。

少したって、父が風呂から上がってくるときに、母との話で、撲られたのではないかと言っているのが聞えて、もしかしたら、誰かに殴られ、金品でも取られた? 下におりると、母は横になっていた。具合がわるいのか?聞いてみても、大丈夫だというだけ。ちょっとおかしいので、きのう、誰かに襲われたのではないか?何か盗まれていないか?ときいたみたが、そんなことはないと言う。体操の時にいつも持っていく道具を一応、調べてみたが、財布はあるし、手提げもよごれているようではなかった。
気分は悪くないが、風呂には入りたくないと言う。何かおかしいので、今夜は様子を見て、父が明日、近くの医院(外科)に連れて行くことにした。
(この医院は、そのころじいさんが腰の治療に超音波だかをかけに日常的に行ってたところ。じいさんが連れて行った。レントゲンを撮って異常なし。その他、特別な注意なども受けなかったようだ)

( 「2 119番」の写真のように、3月下旬には顔のあざも治って、しばらく、こんなことは忘れていた。それが・・・)

2006.4.16(日)
夕食後のデザートにイチゴを食べることになっている。母が自分で用意して冷蔵庫にいれて、忘れないようにイチゴ用のスプーンをテーブルの上に出してある。それなのにそれを忘れ、目の前にあるみかんを食べようとする。そうじゃない、イチゴを食べるんじゃないのかと、注意すると一端はおさまるが、またすぐ、みかんを食べたらどうだと言い出す。

2006.4.18(火)
夕食が終わって、足が痛くて立つことができないと言う。私が後から抱えて起そうとしたが、痛くてだめだと言う。

2006.4.19(水)
午後、1人で買い物に出かけて行ったのだが、帰ってきて、疲れたといって横になっていた。どこに行ったのか、聞いてもわからない。

2006.4.20(木)
今日は、午前中は自分で動くことが出来たようだ。しかし、よろよろしている。午後、1時過ぎに、お使いに出かけると言う。どうみても外にでられそうにないので、今日は買うものはないからと言って、止める。足が痛くて、座れなくて、ずっと台所で立っている。

夕食の支度をするのに、後ろから見ていて、だんだん足で身体を支えられなくなり、流しに寄りかかりながら、足が曲がってくるのがわかる。倒れそうになったので、椅子にすわらせる。夕食も、椅子に座りながらとる(そのころ脚の低いテーブルで座って食べていた)。

(この時まで、私が、じいさんはもとより、ばあちゃんのことに介入する事は全くなかった。それは、恐らく、じいさんがいやがるだろうし、じいさんがやるべきことだと思っていたからだ。ところが、ここ何日で、ばあちゃんの認知面での具合が急変しているのに、じいさんが動こうとしない。ここでさすがに悟った。じいさんは優柔不断で決断力、実行力ないダメなやつだと。この時、じいさんを完全に見限った。以降、家のことをほとんど私が決めていく。今思うと、これがわたしのボッチ介護の始まりだった。その時は、まだ、ある人物(こいつが、じいさんに輪をかけようなダメなやつだった。それがわかるのはずっと後)を信頼していたので、1人でやるはめになるとは思っていなかったが。私が認知症の病院にばあちゃんを連れて行くとじいさんに告げた。すると、じいさんがしぶしぶ、自分で何とかすると言って)

父が、いつも自分で通っている外科の医院から、隣の市にある、この辺では大きな〇✕△病院の紹介状をもらってきた。

(それで、そこに連れて行こうという矢先だった 翌21日の朝、どん と。「1 どん から始まる」へ)


写真は、「2 119番」の写真とほぼ同じ、一連のうちの一枚。3月30日に撮ったもの。左目の腫れが引いているのがよくわかるかと(他に写真がなかっただけだが)。

でも、ころんで頭を打ったとしても、その時はなんでもなく、次の日から腫れてくることがあるだろうか? これを書いていて気付いたんだが、もう確かめようもないね。


3 慢性硬膜下血腫

2025-02-21 11:17:52 | 介護
相変わらず、救急外来の長椅子に居るのだが、いつまで待たされるのか、随分長かったような気がする。検査に出る時に看護師さんに、衣類、入れ歯などばあちゃん(母親)が身につけていたものを入れてくれた袋を渡されていた。一度、じいさん(父親)に携帯から電話してみた。携帯の記録では、それが12:27となっている。確か、家に帰れたのは夕方で、すでに薄暗くなっていたような。

ようやく検査を終えて、救急外来の大きなドアが開いてまた入っていった。しばらくすると看護師さんが来て、名前を聞かれ、医師から説明があるから中に入って、ばあちゃんのところで待っていてくれと言われる。

ばあちゃんはベッドに寝かされていた。点滴をしているところが気になるらしく、それをいじろうとするのを何度もダメだと言わなければならなかった。自分がどういう状態なのかわかっていない。看護師さんが言うには、意識(ボケてるからとは言わなかった)がはっきりしていないようだから、点滴をはずしたりするので、注意して欲しいと。

これは、この最初の救急から最後の入院まで何度も続く私の仕事になっていった。

しばらくして医師がきて、母の両腕を上げさせ様子をみている。左と右に違いがあるという。その後知ったが、これは脳梗塞なんかでもするやつだ。

別室に入り、PCの画面にCTスキャンの画像が映っている。それを見ながら説明をうける。

なんとかという難しい病名で一度には覚えられない。なんとか膜、なとかかんとか出血とか、なんとか。う~ん(苦笑)。

その画像で頭部の右側(左脳か?)に大量の血液が充満しているという。実際、見てみて右側の4分の1ぐらいが、色が変わっているのがわかる。この血液が脳を圧迫して、左脳を右脳の方へ押しやっているということだ。だから、この溜まっている血液をすぐに手術して抜かないといけないという。そうしないと悪くなる一方だそうだ。

同意するしかない。その場で、お願いした。

CTに続いて、MRIの画像。こちらは脳の形がよくわかり、左脳、右脳の本来は真ん中にあるべき境界線がかなり左側に寄っていて、その境界線も分りずらい。

検査前に、ここ1ヶ月ぐらい前にあったことを話してあった。転んで頭を打ち、近所の医院に連れて行き、レントゲンをとったが異常はなかったこと、その後、だんだん物忘れがひどくなっていったことなど。

そのことが原因で、今回のことが起こったのではないかという。頭部を打って、その時はなんでもなくても、しばらくすると、内部にじわじわ出血してくることが、特に高齢者には多いそうだ。

病名は、「慢性硬膜下血腫」で、初めて聞く名だ。2度ぐらい聞き返した。そうしたら、医師の方で紙に書いてくれた。

医療従事者はもちろん(これがそうでもなかった(苦笑)。12年後ちょっとした事件がおこる。それは、その時また。)、老人施設などで働く人たちも知っておいた方がいい病名・症状だろう。

というのは、足腰が弱っているお年寄りがころんで、頭打ったりすることもあるだろう。その時は、けがをしただけで済むかもしれないが、1,2か月たって認知症の症状が現れたり、歩けなくなったりするかもしれない。

でも、この病気のことを知っていれば、もしかしてと、医者に見せれば大事にいたらずに済むだろう。また、適切な処置をすれば、認知症の症状が改善する、治せる認知症の一つらしい。

ケアマネさん、ヘルパーさん、うちに来てくれた何人かに聞いてみたが、知っている人、いなかったなあ。まあ、病名もいっぱいあって切りないからなあ。

以前、テレビドラマでも、取り上げらていたこともあった。

それで、次回は、ここまで、この1ヶ月ぐらい前に何が起こっていたか振り返ってみることにする。


あの時、医師が病名を書いてくれて紙がまだあるのでは、と今回探してみたが、見つからなかった。残念。

その代わり、「プロローグ(2)介護保険ってなに?」 で書いた、風呂椅子を買った時の明細書と椅子の取説が出てきた。

買ったのは、2009年8月で、この3年後。アマゾンじゃなくて、楽天だった! 私の記憶力そんなもんだろう(苦笑)。





2 119番

2025-02-14 12:34:47 | 介護
2006年4月21日(金)、授業を終えて早々に職場を出て、また自転車をこぐこと30分、家に着いた。

もしかしたら、という私のかすかな希望とは逆に、ばあちゃん(母親)は、家を出たときより、さらにぐったりしていた。前回書いたように、帰ってくる時どうするか考えていて、よくなっていなかったら119番しようと私の中では決めていた。じいさん(父親)は、相変わらずリクライニングの椅子でぐったりしていた。じいさんに、119番することを告げると、病院に連れて行くにも方法がないので、それでいいと。

119番。

「火事ですか救急ですか」と言われたかどうか、覚えていない。私にとって、その後、何度もお世話になる初めての119番だった。

母が具合が悪くなったので、とだけ言ったら、すぐ救急車をよこすと言ってくれた。理由は聞かれなかった。

すぐに電話があり、救急車からで、サイレンの音がものものしく受話器から聞えてきた。病人の容態をきかれる。足が痛くて歩けないと伝えた。年齢など聞かれたかもしれないが、その時、ばあちゃんの歳とか生年月日、知らなかったかも。

“せいぶ”救急です、と言ったので、西武でやっている民間の救急車かと思った。有料? 来てみて“西部救急”で消防署の救急車だとわかった(この後知るようになるのだが、救急車っていろんなところから来てくれるんだね)。

救急隊員の方が3名ほど家の中に入り、いろいろばあちゃんの容態をみたり、こちらも、ここ2~3日の出来事を話したのだが、どうも病気じゃないのではないか、という言い方をする。

一番偉そうな人が、脚をさわって痛いかどうか確かめたり(ばあちゃんもこういう時は、そう答えるからなあ(苦笑)、本当に痛くなかったかもしれないが)、腕に力が入るかどうか確かめたが、異常はないという。力が全体的に弱そうなので、栄養がたりてないのではないか、ちゃんと食事させているか、のようなことを言う。栄養失調だろう、はては老人虐待とてでも言いたげな感じだ。

こちらとしては、ここ2~3日の異状な状態からそうは思えないので、このときの救急隊員の方の応対にはちょっと不愉快な印象をもった。また、朝、便所で倒れていた時なぜ、119番しなかったのか、どうして、仕事から帰ってきから電話したのかなどきかれ、何とも返答しようがなかった。こんなのに救急車を呼ぶな、自分で病院に連れていけ、という印象を受けた。

これは病院に連れて行ってくれない? 自分でやるしかないのか? という不安も私の中で少しかすめていた。

それでも、救急車をだしてくれるこになった。隊員の一人の方が、じいさんに、「お父さんも、具合悪そうだし、大変だね。」と声掛けしてくれる。ばあちゃんの身の回りのものを簡単にまとめて、救急車に乗り込む(初めての体験、狭い)。この時は、わが家の玄関までの通路が狭く、ばあちゃんは担架に乗せられ庭からで出たんだったか?

サイレンの音に気付いた近所の人たちが何人かこちらを見ていた。

これで案外すぐ出るのではなくて、行く先の病院とやり取りしているらしい。個室しかあいていない、それでもいいか、と聞かれた。いいですとしか言いようがない。この時は、目の前に横になっているばあちゃんのことを思うより、自分がどうなっていくのか、不安は不安なんだが、ちょっと何かが違うという、先が見えない、ぼーっとした感じだった。


19年たって、今思うことだが、なぜすぐ119番しなかったのか。脳梗塞だったら 何時間以内に適切な処置をすれば助かる、逆にそれを超えると危ないとかいうが、そんなことは知らなかったと思う。知らなくてもすぐ通報しなけりゃダメだろう。

実は、この3年後、脳梗塞と思われる事例に2度遭遇するのだが、その時は、脳梗塞じゃないのかと思いすぐ救急車を呼んだ。それぐらいのことは私もしている。

でも、それでも、後で書くことだが、この少し前にいろいろあったことも関係して、緊急は緊急だが、脳梗塞のような緊急性を要する病気でもないかなあ、という迷いがあった。でも、なんかおかしい。それで当時すでに言われていたであろう、安易に救急を利用するな、という思いもあって、119番に躊躇していた。全くの素人考えだが・・・要するに大事(119番)は少しでも後回し(どん が起こるまでは)に、ってことだね。

また、動けない年寄りを病院に連れいくということが、どういうことなのか、わからなかった。全く初めてのことだ。

どやって? うちにはクルマがない。後で知ったが介護タクシーなんてあることも知らなかった。7119も知らない。

また、病院に救急外来と一般外来があることも知らなかった。これも後で、知ることになるのだが、動けなくなったじいさんを介護タクシーで病院に連れ行ったら、救急では受け付けてもらえず、一般外来扱いで、えらい大変なことになった。


どこに連れていかれるのかわからなっかたが、進行方向を見ているとすぐに近所の病院だとわかった。着くと救急隊員の方が、まず受付で手続きをしてくれという。これがわからない。私がこの病院に入るのは子供時以来何十年ぶりだ。当然建物も違う、とこが入り口なのか、警備員の人にきかないとわからなかった。ようやく受付で聞いてみると、救急の場合、受付はしなくていいとのこと。う~~、といった感じ。

ちなみに、この病院で母方の祖父(ばあちゃんの父親)が死んでいるんだが、私は入院中一度も見舞いに行かなったというじいさん不幸者だった(苦笑)。

救急の入り口の所で待っていてくれというので、そこの長椅子に座り、ちょっと待たされる。この長椅子もこの後、何度もお世話になる。

少し呼ばれて、医者に容態をきかれるが、印象は救急隊員と同じ。脳梗塞などの簡単な検査はしたのだろう。どこも悪くないようだ、あとはCTかと、と言う。一通りのことを話し終わると、また、外で待っていろと。もしかして何でもないのかも、ここでダメならと少し不安になる。

外でまた待っていると中から聞えてくる。どうやら立たせた状態を見ているらしい。それで、ようやく、どうも様子がおかしいと、流れが変わったのが外に居ても分かった。

ばあちゃんがトレイに載せられて検査に連れて行かれた後だっと思うが、さっきの偉いさんではない救急隊員の方が帰ると言いに来たので、外に出て礼をいう。救急隊の方にも伝わっていたのか、その時はもうぞんざい態度ではなかった。

実は、この後、検査で病名がわかるんだが、救急隊員でも一応症状など知っていなきゃいけない病気なんじゃないかと思う(医者でも即断はしなかったが)。年寄り(とは限らないが)には、ありがちな病気のようだ。急性じゃいが、ほっておいたら命にかかわる病気だ。栄養失調はわかっても、素人じゃわかんないと思う。最近、たまに耳にするが、私は、その時が初めて聞く病名だった。しかも一度で何を言っているのかわからず紙に書いてもらった(笑)。

まあ、この後、17年間、ええ!? そんなこと素人には無理でしょう、ということが結構あった。まあ、十数年も前の事だから、その辺の素人への対応は今とは違うだろうが。広い意味での教育、情報伝達の問題だね。


救急車というと、昔、赤痢が流行ったことを思い出す。小学校でも、どこのクラスでも何人かかかり、入院した。その子たちにお見舞いに絵描いて送ろうと言うことになった。なかなか何を描いたらいいか浮かばない。病気ということで、私たちのグループは救急車の絵を描くことした。上手く画けたと思った。ところが担任の岩本先生に大目玉をくらった(笑)。病気で大変な思いをしている人たちに対して何だ、という事だったらしい。今だったら、どうなのか? 今でもそうか? ほかのグループの描いた絵を見て、子供心にもうまいこと描くもんだなあと思ったが。

写真は、この3週間前の3月30日。下から雑草が生えてきたのが面白く、撮ってみた。この時は、全く分からなかったが、すでに兆候はあったんだなあ。






1 どん から始まる

2025-02-07 09:20:15 | 介護
2006.04.21(金)
明け方、目が覚めてしまったので、教材作りを始める。すると、下で(私はその時、2階の自室にいた)ばあちゃん(母親)が起き出したてきたのが音でわかった。

ちょっとたって、どん、という少し大きな音が。

う・うん(?)と思ったが、それがすぐには自分の次の行動にはつながらなかった。5分ぐらいたってから、何かあったかとようやく気になり階段の上から下の様子を覗き込んでみてみた。上からはわからい。

下に降りるとトイレのドアが開いていて、便器の前に、ばあちゃんが倒れていた。

不思議と、大変なことが起こったとは思わなかった。また、足が痛くて(このころ足が痛くなることが多かった)て立てなくなったか。顔を近づけて、気分はどうかと、聞いてみると、気分は大丈夫だという。でも、寝言でも言うように、おしっこがしたい、おしっこがしたい、と。

寝たままされたら・・・

とにかく、小便をさせなければと、起すことを考えた。確か右肩を下にしてくの字に横になっていた。1回試してみた。どうやってやればいいんだ? 1人では出来そうにない。

もうかなり前、雪でスリップしたのか、転倒したスクーターを運転手ごと起こしたことがあった。若い人だったが、私のやり方が強引だったせいか、痛い痛いと言っていた(苦笑)。自分もまだ若く、力があったんだなあ。今、あんなことしたら、確実に腰を痛める。ぎっくり腰も経験しているし。その場所が、後に、じいさんでお世話になる訪問看護ステーションの前だった。なにかの縁だったのか?

それで、じいさん(父親)に助けをかりよと、じいさんが寝ている和室に行く。この時はじいさんも具合がわるく肩が痛くて、リクライニング椅子を持ち込んでその上に寝ていた。そのじいさんをおこそうとすると、さらに具合が悪くなっていてとても手伝えないと言う。確かに。

これは1人でやるしかないと覚悟して、母のところに戻った。狭いトイレでじいさん呼んで2人になってもやりようがなかった訳だが。

小さい母だと思っていたが、起すのは大変だった。狭いところに足を入れて、なんとか背中から抱えて起す。それから向きを私の方に変えて、取り敢えず便器に座らせた。しかし、ズボンがぬげない。尻が便座にはまっているからだ。

ばあちゃん自身が自分では何もできない。後から思えばだが、その時は、完全に全身の力が抜けている状態だった。

また、抱えて直して少し身体をもちあげ、片手でなんとかズボンをぬがせた。こんどはパンツで、そのつど腰をおろしてしまうので、なかなか小便ができない。同じ要領で、なんとかパンツがおりて、やっと小便をすます。次はパンツとズボンを上げなければならない。それも大変だったが、なんとかやって、和室に連れて行き、じいさんの椅子の脇にまだ引いてあった布団に寝かせた。

大変は、大変だったが、そんなに疲れたという印象はない。

母親にこんなことするのは、初めてだ。やらなければいけなことを、やった、というだけで時間が過ぎた。その時は、十何年か後、これが日常的になるなんてまったく思いもよらなかった。

この時、ばあちゃんがどう思ったかなんて、その時も、今もわからない。

この時は、不思議とすぐにでも、救急車をよんで、医者にみせなければ、とは思わなかった。自分も少し寝たくなったので、何かあったときのために明かりをつけながら横になった。

7時ちょっとすぎに起きて下に降りていく。じいさんも起きていたが具合がひどくわそうだった。ここで、どうしたものかと思う。とにかく仕事(そのころ私は、隣の市にある専門学校で非常勤講師をしていた)に行って、きょうは2限までなので、昼までには帰れる、それからまた様子をみてもいいのではと。それで、まずは朝食をとることにした。

ばあちゃんは、きのうあたりからまた足が痛いと言い出し、その他、ちょっとふらふらしていたので、軽い脳梗塞でも起きているのかもと、じいさんと話していたことを思い出していた。このときすぐに119番してもよかったのだが、でも何日か前みたいに休めば足の具合いはよくなるのではないか、希望的なことが頭に浮かんできていた。

正直、仕事を休むのも、代わりの教師(そのころ、その学校である教科を1人で担当していた)がいない今は休みにくいな、授業が終わってからでも、なんとかなる。

面倒なことは、少しでも後回しにしたい。

じいさんにはばあちゃんをトイレに連れていくことが出来ない(この時は、もちろんパッドもリハビリパンツもうちでは誰も知らなかった)ので、私が出るまえにもう一度ばあちゃんをトイレに連れていった。倒れていたときと同じように、便座に座らせ、ズボンやパンツをおろし、用をさせて、また、布団にもどすのはとても大変(一度目より大変だった)で、時間ぎりぎりになってしまった。

職場までは、自転車で、30分ほど。往きは、何を考えていたか全く覚えていない。

学校では生徒を背にして黒板に書いているとき、どうすっか、と思ったことを覚えている。

授業が終わると早々に学校を出て家へ向かった。この時、他の方にこの有り様を話すこともなかった。

自転車をこぎながら、よくなっていなかったら119番しようと決めた。

これが本編の始まり、1回目。もう19年前のことなので細かいことはほとんど忘れている。でも、この日のことは、数日あとににメモ帳とは別にワープロで文書にしてあった。ただそれだと起こったことを淡々と書いてあるだけなので、ちょっと臨場感を持たせるために、盛っているところもある。

今思えば、あの「どん」という音がすべての始まりだった。

じいさん(84歳)、ばあちゃん(81歳)、まあ、歳なりにあっちが痛い、こっちが痛い、物忘れがひどい、となってはきていたが、この時まで、私が2人の生活に口を出すことは全くなかったし、手を貸すこともほとんどなかった。3人だけの家族でそこそこやれていた(じいさんの正体が知れて、その優柔不断性、決断力のなさにようやく気付いづいてあきれてはいたが(笑))。

でも、それがここで途切れた。
これがこの家のことで私が決めていく初めてのことだった(まだすべてじゃないけど)。

写真は、この約2か月前の2月。カメラ雑誌の写真コンテストではじめて予選通過で名前だけ載ったときのもの。思えばあの頃あったカメラ雑誌はみんな休刊、廃刊で、今、書店の棚に見ることはなくなってしまった。

ばあちゃん、気持ちよさそうに寝ているなあ~。





プロローグ(3) データマイニング これって、ごみ? 宝?

2025-01-30 13:41:29 | 介護
これから、いよいよ、じいさん、ばあちゃんの私の17年間の介護生活を書いていくのだが、やっぱり色々参考にするものが手元にある。介護ノートに日々の記録はしていたし、じいさん、死んで10年、ばあちゃん死んで1年半、かなり物は捨てているが、まだ、そこそこ残っている。ざっとこんな感じ。

すべてではないが。

基本はアナログのメモ帳

A6サイズのノートにボールペン、手書きでいろいろなデータ取っていた。これが基本中の基本。
ただ、字が汚いので、後から見返すと何が書いてあるのかわからないところが多い。これが難点(苦笑)。

小学校の担任だった岡先生に「〇✕君、こんなに字が汚いと、君は将来苦労するよ。」と言われたのを今でもよく覚えている。幸い、人生の後半はワープロ、PCと手書きすることは極端に減ったのでそれほど感じることはなかったが、今になってツケけが回って来たか(苦笑)。

家計簿?

買った物だけ金額を書いていた。収入はないから(笑)。

それに、アナログデータ、こんなにあったら、どこに何がかいてあるのか、さっぱりわからない。探すのに苦労する。前回とりあげた風呂イスもどこかに書いてあるはずだが、みつけられなかった(泣)。

摂取、排泄などの毎日とっていた数値データは、表計算ソフトに入力していた。


動画、写真

動画はGoProを記録用に買ってから、かなり撮った。PCのハードディスクがすぐいっぱいになった。ブルーレイディスクに書き換えて保存していたが、こんなにたくさんになってしまった。これじゃ、どこに何があるのか、やはりわからないので、検索やしやすいように少し容量の大きいハードディスクを買って、入れっぱなしすることにした。どう学習機能や認知機能が衰えていくのか記録したかった。

それにしても、量が多くて、見る気がしない。 写真も同様。

あとは、デーサービスやヘルパーさんが書いてくれて日誌など。

いただいた当日など、申し訳ないが、ほとんど見ることはなかった。でも、いま見ると、他人の目でその時が振り返る事ができる(まあ、形式的、お決まり事だが)。

計画書や請求書、領収書などの書類

これは、どんどんたまるに溜まっていくので、どんどん捨てて行った。
整理が大変だが、どんなサービスを受けていたのかを振り返るにはとっておいた方がよかったか。

あとは、いろいろ使用した器具、服などなど・・・・

まだまだ、見るのがつらい。重い。体調が悪くなる。

この中から、目的のものを探し出すのは大変。
果たして、くずデータになるのか、それとも宝物がみつけられるのか。
やってみなけりゃわからない。

最後は、これ。私の幼少期の後姿。多分2才半ぐらい。ほんのかすかながら覚えがある。多分、私の一番古い記憶だ。

これはゴミにはできない。これから一仕事するのだから。