17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

秩父の武甲山、東京から見えんの?

2025-02-10 17:39:15 | 古い写真
フェイスブックへの投稿は無期限休業中なのだが、たまに覗いてみる。

今日見たら、昔の武甲山、まだ頂上付近はもちろん、上の方が全く削られていない写真がアップされていた。

びっくり!

初めてみた。撮っている人は撮ってるもんだ。半世紀以上は前のものらしい。

山になんか全く興味がなかった子供のころ、じいさんから、「あれ、武甲山っていうんだよ」ってきいて、武甲山という名前だけは知っていた。それはうちのすぐ前の原っぱから見える山並みの一番北側に見える最後の山の出っ張りだった。

ああ、あれが武甲山なんだな、と疑ってみたこともなかった。

でも、今思うと武甲山、秩父の山がうちから見えるんだろうか?

例えば、東京から筑波山が見えると言われたら、そうだと思うだろう。だった広い関東平野、北東の方には高い所は筑波山しかないのだから。ちょっと小高いところからそっちに見えるのはみんな筑波山だ(笑)。

でも、武甲山までは、手前に奥武蔵の山々が結構あるぞ。武川岳、伊豆ケ岳、根ノ権現、飯能まできて天覧山(ここだけ登ったことがない)とか。それらが邪魔して見えないのでは。

真西に、大岳を中心に、奥多摩の山並みが左右に滑らかに連なっている。ほとんど、知っている山、登ったことがある山ばかりだ。 でも、ここ、東京都の北側の真ん中から武甲山が本当に見えるんだろうか?

地図を見ると、武甲山は標高が結構高く(1304m)、案外奥武蔵の他の山々は低い。それに丁度、武甲山から谷沿いに南東方向がうちの当たりなので、邪魔しているものがあまりない。ひょっとしたら見えるのかもと・・・

それでじいさんが撮った写真で探してみたのだが、1枚だけそれらしきものがあった。かなりわかりずらいが真正面の出っ張り、だと思う。1961年9月に撮られたもの。はたして、これは武甲山だったのだろうか? 形は南東から見てもそれらしいが(形が変わっていってるとか言っていたが、こちら側は削られていないので同じだろう)・・・


今、ここは住宅地になり、その先も団地やらマンションやらで、ここから見える山々はもうない。



1 どん から始まる

2025-02-07 09:20:15 | 介護
2006.04.21(金)
明け方、目が覚めてしまったので、教材作りを始める。すると、下で(私はその時、2階の自室にいた)ばあちゃん(母親)が起き出したてきたのが音でわかった。

ちょっとたって、どん、という少し大きな音が。

う・うん(?)と思ったが、それがすぐには自分の次の行動にはつながらなかった。5分ぐらいたってから、何かあったかとようやく気になり階段の上から下の様子を覗き込んでみてみた。上からはわからい。

下に降りるとトイレのドアが開いていて、便器の前に、ばあちゃんが倒れていた。

不思議と、大変なことが起こったとは思わなかった。また、足が痛くて(このころ足が痛くなることが多かった)て立てなくなったか。顔を近づけて、気分はどうかと、聞いてみると、気分は大丈夫だという。でも、寝言でも言うように、おしっこがしたい、おしっこがしたい、と。

寝たままされたら・・・

とにかく、小便をさせなければと、起すことを考えた。確か右肩を下にしてくの字に横になっていた。1回試してみた。どうやってやればいいんだ? 1人では出来そうにない。

もうかなり前、雪でスリップしたのか、転倒したスクーターを運転手ごと起こしたことがあった。若い人だったが、私のやり方が強引だったせいか、痛い痛いと言っていた(苦笑)。自分もまだ若く、力があったんだなあ。今、あんなことしたら、確実に腰を痛める。ぎっくり腰も経験しているし。その場所が、後に、じいさんでお世話になる訪問看護ステーションの前だった。なにかの縁だったのか?

それで、じいさん(父親)に助けをかりよと、じいさんが寝ている和室に行く。この時はじいさんも具合がわるく肩が痛くて、リクライニング椅子を持ち込んでその上に寝ていた。そのじいさんをおこそうとすると、さらに具合が悪くなっていてとても手伝えないと言う。確かに。

これは1人でやるしかないと覚悟して、母のところに戻った。狭いトイレでじいさん呼んで2人になってもやりようがなかった訳だが。

小さい母だと思っていたが、起すのは大変だった。狭いところに足を入れて、なんとか背中から抱えて起す。それから向きを私の方に変えて、取り敢えず便器に座らせた。しかし、ズボンがぬげない。尻が便座にはまっているからだ。

ばあちゃん自身が自分では何もできない。後から思えばだが、その時は、完全に全身の力が抜けている状態だった。

また、抱えて直して少し身体をもちあげ、片手でなんとかズボンをぬがせた。こんどはパンツで、そのつど腰をおろしてしまうので、なかなか小便ができない。同じ要領で、なんとかパンツがおりて、やっと小便をすます。次はパンツとズボンを上げなければならない。それも大変だったが、なんとかやって、和室に連れて行き、じいさんの椅子の脇にまだ引いてあった布団に寝かせた。

大変は、大変だったが、そんなに疲れたという印象はない。

母親にこんなことするのは、初めてだ。やらなければいけなことを、やった、というだけで時間が過ぎた。その時は、十何年か後、これが日常的になるなんてまったく思いもよらなかった。

この時、ばあちゃんがどう思ったかなんて、その時も、今もわからない。

この時は、不思議とすぐにでも、救急車をよんで、医者にみせなければ、とは思わなかった。自分も少し寝たくなったので、何かあったときのために明かりをつけながら横になった。

7時ちょっとすぎに起きて下に降りていく。じいさんも起きていたが具合がひどくわそうだった。ここで、どうしたものかと思う。とにかく仕事(そのころ私は、隣の市にある専門学校で非常勤講師をしていた)に行って、きょうは2限までなので、昼までには帰れる、それからまた様子をみてもいいのではと。それで、まずは朝食をとることにした。

ばあちゃんは、きのうあたりからまた足が痛いと言い出し、その他、ちょっとふらふらしていたので、軽い脳梗塞でも起きているのかもと、じいさんと話していたことを思い出していた。このときすぐに119番してもよかったのだが、でも何日か前みたいに休めば足の具合いはよくなるのではないか、希望的なことが頭に浮かんできていた。

正直、仕事を休むのも、代わりの教師(そのころ、その学校である教科を1人で担当していた)がいない今は休みにくいな、授業が終わってからでも、なんとかなる。

面倒なことは、少しでも後回しにしたい。

じいさんにはばあちゃんをトイレに連れていくことが出来ない(この時は、もちろんパッドもリハビリパンツもうちでは誰も知らなかった)ので、私が出るまえにもう一度ばあちゃんをトイレに連れていった。倒れていたときと同じように、便座に座らせ、ズボンやパンツをおろし、用をさせて、また、布団にもどすのはとても大変(一度目より大変だった)で、時間ぎりぎりになってしまった。

職場までは、自転車で、30分ほど。往きは、何を考えていたか全く覚えていない。

学校では生徒を背にして黒板に書いているとき、どうすっか、と思ったことを覚えている。

授業が終わると早々に学校を出て家へ向かった。この時、他の方にこの有り様を話すこともなかった。

自転車をこぎながら、よくなっていなかったら119番しようと決めた。

これが本編の始まり、1回目。もう19年前のことなので細かいことはほとんど忘れている。でも、この日のことは、数日あとににメモ帳とは別にワープロで文書にしてあった。ただそれだと起こったことを淡々と書いてあるだけなので、ちょっと臨場感を持たせるために、盛っているところもある。

今思えば、あの「どん」という音がすべての始まりだった。

じいさん(84歳)、ばあちゃん(81歳)、まあ、歳なりにあっちが痛い、こっちが痛い、物忘れがひどい、となってはきていたが、この時まで、私が2人の生活に口を出すことは全くなかったし、手を貸すこともほとんどなかった。3人だけの家族でそこそこやれていた(じいさんの正体が知れて、その優柔不断性、決断力のなさにようやく気付いづいてあきれてはいたが(笑))。

でも、それがここで途切れた。
これがこの家のことで私が決めていく初めてのことだった(まだすべてじゃないけど)。

写真は、この約2か月前の2月。カメラ雑誌の写真コンテストではじめて予選通過で名前だけ載ったときのもの。思えばあの頃あったカメラ雑誌はみんな休刊、廃刊で、今、書店の棚に見ることはなくなってしまった。

ばあちゃん、気持ちよさそうに寝ているなあ~。





八潮市って、あの八潮市?

2025-02-03 10:22:46 | 日記
私はあの八潮とは縁もゆかりもない(多分)東京の片田舎に住んでいる。

共通しているのは、あって欲しくない事件、事故でもないと全国区(死語か?)に名前が出ることが無いことぐらいだ。その事件、事故がたまにあるのだが・・・

出不精で、ほとんど旅行など行ったことのない私がその八潮市に、3度行ったことがある。

人に話したことも何度か。

じいさん(父親)の出身地(出生地は桐生だったか?))なのだ。

去年、叔父夫婦のところに久しぶりにお邪魔したときに、八潮に行ったことを話したら、叔母さんが、「大瀬の半五郎」と口にした。この名前も何十年ぶりに聞いた。八潮ゆかりの侠客とのことだが、よくある「かなり遠い親戚」話だ(笑)。ネットで調べてみると八王子の生まれ説もあり驚いた。この叔父夫婦は八王子にずっと住んでいる。

それに、ここにきていつも読んでいる朝日新聞の「B」に「それぞれの最終楽章」という連載があり、今、書いている記者さんがご両親を入居させた施設が八潮市とのことだ。

ここまでは、まあ、どうでもいいことで、よく「八潮」、目にするなあ、ぐらいのことだった。ところが・・・

そう、道路の陥没事故って!

またしても八潮か。

先月28日。県道が陥没して2トントラックがその穴に落っこちた。

はじめは、穴もそれほどでもないし、トラックの運転手さんも話をしていたとのことなので、すぐ救い出せるだろうと思っていたが、、、

穴がもう一個できて、それがもとの穴とつながってと、どんどん大きくなって、いまだに救出できないとは。

この科学技術の時代に救い出せないなんて、嘘だろう。 ドローンとかないのか?

昔見た、ターザンだかに出てきた底なし沼を思い出す。子供には怖かった。コンバットにもあったか? あれの現代版か。

年末の韓国の飛行機事故といい、またしても国際救助隊がいてくれたらなあ、と。

一刻も早い救出を祈るのみ。


写真は、20年前の八潮の大曾根(じいさんの田舎)。この道をまっすぐ行くと、あの県道にでる。