私が小学六年の春(ちょうど今頃)、先代の犬コロが我が家にやってきた。彼はそれから十五年という当時の犬としては長寿を生き抜いたのだが、彼の駆け抜けていった時代というのは、丁度日本の経済がバブルにむかい上昇し、好景気を謳歌、そして弾けていった時期と重なる。
我が家に来た当時は、もちろん外飼い(これは終生続くが、のちのち夏冬の気候の厳しい時期は玄関先に入れてもらえるようになる)。雨が降れば、ビニールの米袋に穴を開け、頭からかぶせてレインコート代わりにしていた。ワクチンの予防注射も仔犬の頃に一度だけ(狂犬病予防注射は毎年打っていた)。ドックフードもビタワン(安い)。たまに味噌汁かけご飯をもらっていた。
そんなコロが九十年代に入ると、既製の犬用のレインコートを着て、ティファニーの迷子札をするようになる。私たち姉妹も大学生になり、オープンハートのネックレスだなんだと言うようになってきた。コロもおしゃれすべきだと思った。愛情をお金で示すべきだと思った。食事も半生タイプのドックフードに昇格、たまのご馳走には豚こま入りご飯が出るようになった。
バブルがはじけてからの景気悪化の影響を私の家族もコロもあまり受けていなかったかもしれない。丁度その頃父親は定年退職になったし(そういう意味では、あまり金銭的に頼れない雰囲気にはなった)、私も就職せずに進学してしまったので、世間の厳しさからは隔絶されていたと思う。
でも、修士を出て、出版社での仕事も契約満了となり、十五時までの派遣の事務仕事を選んだ時、友人のひとりが「坂田さん、犬のためですね。私はわかります」と言ったのを今でも覚えている。ほんと、ぎくりとしたのだ。
当時老犬となっていたコロは介護が必要だった。正規の就職をしてしまえば、コロを看取ることができないかもしれない。それは嫌だ。絶対に嫌だった。主婦でもない若い女子が十五時までの仕事をする。その当時、それは珍しいことではなくなっていた。大卒ですぐにそこに来たという子も多数いた。一昔前は職歴がなければ派遣登録もできなかったのが、そうではなくなっていた。不景気が私の甘えのいい隠れ蓑になったのだ。
すべて今から思えば、である。当時はバブルに踊らされていたという自覚はなかった。でも、こうして振り返ると、犬に対する意識の変化がうかがえる。番犬でもペットでもなく、最期は家族としてコロは逝った。家に上ることは最後まで許されなかったけど、前足は上ってもいいんだとコロは認識していた。時々調子に乗って後ろ足が乗っかっていると、「あ、いけない!」と急いで降りた。コロが亡くなって三年後に飼いだした桃は、同じ雑種でありながら、最初から室内犬として育てた。たぶん、コロの後ろ足が私たち家族の心を動かしたのだと思う。「いいんだよ、乗っかって」。そう言ってあげるには、少しコロには時間が足りなかった。
三月五日がコロの命日でした。
手前のティファニー製迷子札、私はコロが付けていたままにしておきたかったのだが、ある年、姉がきれいに磨いてしまった。銀製品はそうあるべきだと。そういう考え方ができる姉が羨ましい。私は磨くとコロの痕跡まで落ちていってしまいそうで、なかなかできないのだ。前に進めない発想だなと、我ながら思う。