終戦後の日本人住民や日本人婦女子への朝鮮人や中国人による
日本人住民への略奪・強姦・虐殺行為「麻山事件」、「小山克事件」、「葛根廟事件」、「牡丹江事件」、「敦化事件」、
および「乙女の碑」も参照
ソ連軍占領下の地域では、ソ連兵や中国共産党軍、朝鮮人民義勇軍や朝鮮保安隊、および暴徒化した現地住民の朝鮮人による日本人住民への暴虐行為や拉致があった。 米田建三は、婦女子の強姦は有史以来、戦争には付き物とされるも先の大戦での満州・朝鮮における日本人婦女子の強姦は度を越して凄まじいものであった。朝鮮人・朝鮮保安隊のレイプは残虐を極め、強姦・婦人の要求は「報い」として甘受できる
被害とはとうてい言えるものではなく、ベルリン等ドイツ全土では200万人のドイツ女性がレイプされたと推定されるが、朝鮮人朝鮮人の保安隊に犯される日本の婦女子の様はベルリン同様と述べている[3]。 ソ連兵は規律が緩く、占領地で日本人に対する強姦・殺傷・略奪行為を繰り返した為、、これが戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となったのである。
朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為を日本の婦女子に行ったと言われており[4]、強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人となっている[5]。夫の前でソ連兵にレイプされ、
青酸カリで自殺した婦人もいた[6]。興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」と喚
き、女性を発見すると暴行した[6]。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や顔に墨を塗った[6]。
また一部の満蒙開拓団では、未婚女性らを性接待係としてソ連兵に差し出すことで、ソ連への庇護を求めた。 また、中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍は在留日本人に強制徴兵や強制労働を課したため、それに対する蜂起とその後の虐殺などで1946年2月3日の通化事件のような事件が起きた。引揚列車に乗車後、
乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた[10]。
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズによる自伝的小説
『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』
でも被害が記載されている[11](韓国では発売禁止) 多引揚援護局が愛国建物を福岡県から借り、財団
終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。
追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人等による度重なる強姦を受けた末、
心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が出た[注 1]。
移動医療局
ソウルから釜山にかけての旅程にいる引揚者の治療にあたるため、移動医療局(英名MRU、メディカ ル・リリーフ・ユニオン)という組織が形成されていた。
これを手掛けたのは文化人類学者の泉靖一で、のちの在外同胞援護会救療部も、一部の資料によれば泉が働きかけて資金援助をとりつけ作り上げたとされる[3][4]。 移動医療局は、釜山日本人世話会と共で検診する女性を対象に1945年12月より被害調査を行っていた。 1946年3月の調査では、調査対象者885人のうちレイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っている
という数字が示された[5]。
城帝大グループ
朝鮮に在留していた日本人を治療していた経験を持ち、継続して今度は引揚者の治療にあたりたいと志願したのが、旧京城帝国大学医学部医局員グループで[注 2]、外務省に働きかけて省の外郭団体である在外同胞援護会の「救療部」として活動を始めていた[6]。引揚船に船医を派遣したが
搭乗者していた日本人の大多数は朝鮮北部からの引揚者で、特に婦女子の有様は凄惨であった。なかには性的被害に遭った者、なお、かつ、性病感染や妊娠させられた女性もおり、彼女らに対しなんら
救済措置も用意されていない次第を博多引揚援護局に報告し、被害者患者のための病院の設立を具申した。提案は受け入れられ、在外同胞援護会と引揚援護局の協力により、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった[7]。 病院の開設や人員確保の経緯は以上の通りだが、これとは別に医師たちがなぜ違法な中絶手術を恒常的に行う道に踏み切れたのか、
そのきっかけとなったというエピソードも紹介される:このグループの仲間の一員は[注 3]、朝鮮での元教え子に遭遇するが、彼女は国民学校に赴任しており、凌辱されたために妊娠して腹が大きくなっているのが目立ってきた。両親に歎願で中絶手術を決行したが、失敗し、母子ともに死亡した[2][10][11]。
施設の概要
二日市保養所は、かつての愛国婦人会の保養所だったところである[2]
博多引揚援護局が愛国婦人会福岡県支部武蔵温泉保養所の建物を福岡県から借り、財団法人在外同胞援護会が運営にあたった[12]。閑静な立地条件にあり、温泉も湧き出ており療養には最適であった[13]。
木造2階建てで[14]、上の階は14、 15室あり小さい部屋に分かれていた[13]。そして何よりも交通の便がよいが[2]、人目に触れにくい場所であることから選定された(主要な引揚港であった博多港から直行した場合は、当時の劣悪な交通事情下においても3時間内外2017.8.15 10:44更新
【終戦の日】
一家6人、満州から日本目指し引き揚げ 略奪や虐殺…止まらぬ涙 群馬・下仁田の佐藤和江さん
15日、日本は終戦から72年を迎える。長い戦いの終幕は苦しい新生活の始まりで当時、満州国(現・中国東北部)にいた推定155万人の民間邦人は生活が一変、命を失い、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。
満州の首都・新京(現・長春市)で生まれ昭和21年秋、家族と引き揚げてきた群馬県下仁田町の佐藤和江さん(81)が日本で迎える71回目の夏を前に、あまり公にしてこなかった体験を語った。(久保まりな、風間正人)
押し寄せる朝鮮人
昭和20年8月15日、9歳だった佐藤さんは、満州と朝鮮国境の町、大栗子(だいりっし)で玉音放送を聞いた。
「日本が負けるなんて」2週間ほど前、新京から逃れてきた日本人たちは全員が涙した。
だが放送が終わった途端に状況は一変。棍棒やナタを手にした朝鮮人が押し寄せ時計や指輪、財布から屋根裏に隠していた荷物をさらっていった。朝鮮人だけでなく、日ソ中立条約を一方的に破棄して
参戦したソ連軍、中国人などに若い女性や所持品を狙われる逃避行が始まった。
日本人一行が身を寄せた大栗子の施設には満州国皇帝、溥儀もいた。
佐藤さんの父が宮内府職員(馬事技官)だったため情報入手も早く、敗戦前に皇帝一族や宮内府職員らと新京を離れたのだった
日本人住民への略奪・強姦・虐殺行為「麻山事件」、「小山克事件」、「葛根廟事件」、「牡丹江事件」、「敦化事件」、
および「乙女の碑」も参照
ソ連軍占領下の地域では、ソ連兵や中国共産党軍、朝鮮人民義勇軍や朝鮮保安隊、および暴徒化した現地住民の朝鮮人による日本人住民への暴虐行為や拉致があった。 米田建三は、婦女子の強姦は有史以来、戦争には付き物とされるも先の大戦での満州・朝鮮における日本人婦女子の強姦は度を越して凄まじいものであった。朝鮮人・朝鮮保安隊のレイプは残虐を極め、強姦・婦人の要求は「報い」として甘受できる
被害とはとうてい言えるものではなく、ベルリン等ドイツ全土では200万人のドイツ女性がレイプされたと推定されるが、朝鮮人朝鮮人の保安隊に犯される日本の婦女子の様はベルリン同様と述べている[3]。 ソ連兵は規律が緩く、占領地で日本人に対する強姦・殺傷・略奪行為を繰り返した為、、これが戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となったのである。
朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為を日本の婦女子に行ったと言われており[4]、強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人となっている[5]。夫の前でソ連兵にレイプされ、
青酸カリで自殺した婦人もいた[6]。興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」と喚
き、女性を発見すると暴行した[6]。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や顔に墨を塗った[6]。
また一部の満蒙開拓団では、未婚女性らを性接待係としてソ連兵に差し出すことで、ソ連への庇護を求めた。 また、中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍は在留日本人に強制徴兵や強制労働を課したため、それに対する蜂起とその後の虐殺などで1946年2月3日の通化事件のような事件が起きた。引揚列車に乗車後、
乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた[10]。
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズによる自伝的小説
『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』
でも被害が記載されている[11](韓国では発売禁止) 多引揚援護局が愛国建物を福岡県から借り、財団
終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。
追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人等による度重なる強姦を受けた末、
心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が出た[注 1]。
移動医療局
ソウルから釜山にかけての旅程にいる引揚者の治療にあたるため、移動医療局(英名MRU、メディカ ル・リリーフ・ユニオン)という組織が形成されていた。
これを手掛けたのは文化人類学者の泉靖一で、のちの在外同胞援護会救療部も、一部の資料によれば泉が働きかけて資金援助をとりつけ作り上げたとされる[3][4]。 移動医療局は、釜山日本人世話会と共で検診する女性を対象に1945年12月より被害調査を行っていた。 1946年3月の調査では、調査対象者885人のうちレイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っている
という数字が示された[5]。
城帝大グループ
朝鮮に在留していた日本人を治療していた経験を持ち、継続して今度は引揚者の治療にあたりたいと志願したのが、旧京城帝国大学医学部医局員グループで[注 2]、外務省に働きかけて省の外郭団体である在外同胞援護会の「救療部」として活動を始めていた[6]。引揚船に船医を派遣したが
搭乗者していた日本人の大多数は朝鮮北部からの引揚者で、特に婦女子の有様は凄惨であった。なかには性的被害に遭った者、なお、かつ、性病感染や妊娠させられた女性もおり、彼女らに対しなんら
救済措置も用意されていない次第を博多引揚援護局に報告し、被害者患者のための病院の設立を具申した。提案は受け入れられ、在外同胞援護会と引揚援護局の協力により、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった[7]。 病院の開設や人員確保の経緯は以上の通りだが、これとは別に医師たちがなぜ違法な中絶手術を恒常的に行う道に踏み切れたのか、
そのきっかけとなったというエピソードも紹介される:このグループの仲間の一員は[注 3]、朝鮮での元教え子に遭遇するが、彼女は国民学校に赴任しており、凌辱されたために妊娠して腹が大きくなっているのが目立ってきた。両親に歎願で中絶手術を決行したが、失敗し、母子ともに死亡した[2][10][11]。
施設の概要
二日市保養所は、かつての愛国婦人会の保養所だったところである[2]
博多引揚援護局が愛国婦人会福岡県支部武蔵温泉保養所の建物を福岡県から借り、財団法人在外同胞援護会が運営にあたった[12]。閑静な立地条件にあり、温泉も湧き出ており療養には最適であった[13]。
木造2階建てで[14]、上の階は14、 15室あり小さい部屋に分かれていた[13]。そして何よりも交通の便がよいが[2]、人目に触れにくい場所であることから選定された(主要な引揚港であった博多港から直行した場合は、当時の劣悪な交通事情下においても3時間内外2017.8.15 10:44更新
【終戦の日】
一家6人、満州から日本目指し引き揚げ 略奪や虐殺…止まらぬ涙 群馬・下仁田の佐藤和江さん
15日、日本は終戦から72年を迎える。長い戦いの終幕は苦しい新生活の始まりで当時、満州国(現・中国東北部)にいた推定155万人の民間邦人は生活が一変、命を失い、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。
満州の首都・新京(現・長春市)で生まれ昭和21年秋、家族と引き揚げてきた群馬県下仁田町の佐藤和江さん(81)が日本で迎える71回目の夏を前に、あまり公にしてこなかった体験を語った。(久保まりな、風間正人)
押し寄せる朝鮮人
昭和20年8月15日、9歳だった佐藤さんは、満州と朝鮮国境の町、大栗子(だいりっし)で玉音放送を聞いた。
「日本が負けるなんて」2週間ほど前、新京から逃れてきた日本人たちは全員が涙した。
だが放送が終わった途端に状況は一変。棍棒やナタを手にした朝鮮人が押し寄せ時計や指輪、財布から屋根裏に隠していた荷物をさらっていった。朝鮮人だけでなく、日ソ中立条約を一方的に破棄して
参戦したソ連軍、中国人などに若い女性や所持品を狙われる逃避行が始まった。
日本人一行が身を寄せた大栗子の施設には満州国皇帝、溥儀もいた。
佐藤さんの父が宮内府職員(馬事技官)だったため情報入手も早く、敗戦前に皇帝一族や宮内府職員らと新京を離れたのだった