脱原発は安保に匹敵? 政治家は過去に学んで、正しい判断を・・・
脱原発は安保に匹敵? 「声なき声」にも耳傾けたい
2012年07月28日10時21分 産経新聞
「脱原発」を訴え、原発再稼働に抗議するデモが毎週のように、
東京の首相官邸や国会の周辺で行われている。
20日は鳩山由紀夫元首相まで参加した。
といっても主催者が道路使用許可などを申請したデモではない。
多くはインターネットの「ツイッター」の呼びかけなどで集まっており、
その参加者数も正確には把握できないほどだ。
それだけに「脱原発」を支持するマスコミや識者からは
「これだけの国民が自発的に抗議行動しているのは
(昭和35年の)安保闘争以来だ」と、その盛り上がりを強調する
声が聞かれる。
「だから政府はその声に耳を傾け、原発再稼働をやめるべきだ」
と言いたいようである。
だが、どうしても安保闘争に例えて評価したいのなら、あのときの
デモや抗議行動がどんな意味を持ち、何をもたらしたのかをまず
検証すべきだろう。
昭和26年に結ばれた日米安全保障条約を改定した新安保条約が
日米両国の間で締結されたのは35年1月のことだった。
日本が米軍に基地などを提供するだけだったのを、米側に日本を守る義務を
負わせたのが改定の主眼だった。
しかしこれを承認するための国会審議が始まると、野党の社会党を
中心に「米国の戦争に日本が巻き込まれる」とする反対運動が起きてくる。
◆首相の政治姿勢を攻撃
特に5月20日未明、自民党が衆院で強行採決すると、国会の外にも
抗議行動が広まっていく。6月4日、社会党などの「安保改定阻止国民会議」
が全国で第1次「実力行使」を行ったのをはじめ、国会周辺は連日、デモ隊に
埋め尽くされた。安保そのものよりも、当時の岸信介首相の政治姿勢の方が
糾弾されていったのだ。
ヤマ場となった6月15日には約7千人の全学連主流派が国会内に突入、
東大の女子学生1人が死亡する事態となった。このため承認後の批准書交換
のため予定されていたアイゼンハワー米大統領の来日が中止となり、
岸政権は窮地に立たされる。
ところが同月19日、参院では審議できないまま自然承認となり、
批准書が交わされるや、抗議運動はまるで潮が引くように収まってしまう。
国会周辺は元のように静かさを取り戻した。
5カ月後の11月に行われた総選挙では、安保改定を推進した自民党が
解散時より多い300議席(無所属からの入党者を含む)を獲得して「圧勝」する。
反対運動をリードした社会党は解散時を上回ったものの、これは同党から
分かれた民社党の議席を奪っただけで、前回選挙から20議席以上減らして
しまった。
◆国民は抗議運動に反発
混乱の責任をとった岸の後を継いだ池田勇人内閣が「低姿勢」路線を
打ち出し国民の目をそらせたことも要因だった。だが実は「アンポ反対」
自体が国民の民意とは遊離していたのである。
社会学者、竹内洋氏の『革新幻想の戦後史』によると、毎日新聞が
国会承認前の35年3月に行った世論調査で36%の人が新安保条約を
「よくない」と考え、「よい」の22%を上回っていた。
ところが7月末には49%が安保の発効を「よい」「やむをえない」とし
「よくない」より多くなった。
政治ストやデモについては否定的意見の方が多かった。
むしろ国民の反発を招いたのだ。
このことをただ一人見抜いていたのが岸だった。
強行採決後の記者会見で
「私は『声なき声』に耳を傾けなければならない」と述べ、
デモには屈しないことを強調した。
さらに国会突入後にも「都内の野球場や映画館は満員で、
銀座通りもいつもと変わりがない」と強気の構えを崩さなかった。
結局、岸の不退転の決意が安定した日米同盟関係を築いたのである。
逆に反対のデモは政治的には何も得ることなく終わった。
それどころか大きな弊害を残した。
この後何十年も続く自民党政権がまるで「羹(あつもの)にこりた」
ように、安保改定の後取り組むべきだった憲法改正をはじめ、
「国の守り」に関する議論を先送りし続けたことである。
原発をめぐっても、日本の経済のため推進すべきだという意見も多い。
本紙世論調査では大飯原発の再稼働を4割近くが評価している。
だが「脱原発」「反原発」という「大きな声」の前に、
そうした声はかき消されがちだ。
こうした「声なき声」が無視されるようなら、安保闘争同様に
エネルギー政策や原発の安全性に関する正面からの議論ができなくなって
しまう。ましてや、政府が「大きな声」だけに耳を傾けるなら、
将来に禍根を残すだけになるだろう。(論説委員・皿木喜久)
http://news.livedoor.com/article/detail/6800318/
転載
決断の正しさは、歴史は証明している。
政治家は過去に学んで、正しい判断を・・・
。
今の売国民主は、経験にも学ばない。