徳川家康は、秀吉により関八州に移封せられ、天正18年(1590)、江戸城に本拠を置いた。当時、江戸城の東はすぐ海で、そこら中に低湿地帯が広がっていた。利根川も渡良瀬川も江戸湾に流入していたため、江戸は常時、洪水に悩まされていた。そこで、家康は、関東郡代、伊奈備前守忠次に利根川の流路を変える工事を命じた。伊奈は、苦労を重ね、その子、孫と3代にわたる大工事を行い、利根川は付け替えられて、今日のように千葉の銚子へ流れ下るようになったのである。一応の完成が着工60年後の承応3年(1654)、4代目の徳川家綱の世だったという。家康が作った幕府のぶれない政治体制のもと、長期展望に基づいた国造りの壮大なプロジェクトがようやく成し遂げられたのである。
昨今のあやふやな政治、行政のさまを見るにつけ、この利根川東遷を完成させた幕府の、家康の事跡には感動を抑えることができない。
利根川東遷の工事で、東京東部は、隅田川、綾瀬川、荒川、中川、中川放水路、江戸川と河川の流路が整理され、東京湾に流入しているのである。
水元公園は、現在、小合溜という広い沼が中心になっているが、昔は古利根川の乱流地帯だったのだ。この公園は、小合溜の周囲に、水生植物の群落や、ポプラ並木、桜並木、メタセコイアの大木の森、釣り、バードウオッチング、キャンプ場などが配され、東京とは思えないほどの自然の広がりが堪能できる。
地名の水元の名の由来は、周辺流域50か村の灌漑用水の水源だという意味であり、すぐ横には、金町浄水場があって、水道局が都民へ水を送っている。
浄水場の南隣りは、寅さんで有名な柴又で、帝釈天があり、門前町にはお団子屋、川魚料亭などが並ぶ。また、江戸川をわたる矢切の渡しの和船に乗った東岸には、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の文学碑もある。西へ目をやると、中川を渡った向こうには、コチカメの漫画の亀有がにぎやかな下町を匂わせている。
このあたり一帯は、自然、歴史、文化、下町情緒たっぷりの集積地なのだ。