プライドという言葉は英語であるが、その使い方や文脈によって、誇りと訳せるばかりか、高慢という意味にも訳せる。自分に対して誇りを持つことは悪いことではないが、行き過ぎると高慢になることもある。そのバランスは実に難しい。
人は高慢になると、人の助言を聞かなくなるばかりか、人を見下すようになるから実に厄介だ。またプライドは、コンプレックスと表裏一体であり、コンプレックスが強いとその反動からプライドと自称する虚勢で武装してしまうこともある。
できれば自分自身の能力や業績をベースにしたプライドではなく、人が神の作品の最高傑作としての尊厳を身に着けてほしい。この尊厳は他人によっても自分自身によっても侵されない。
たびたび聖書の話になって恐縮だが、聖書の中に、神がエジプトの奴隷となって苦しんでいるイスラエルの民を見て、その地から脱出させるためにリーダーとして選んだのがモーセという人物だ。実はモーセは言葉が下手で民の信頼もなかった。しかし彼は地上の誰よりも謙遜であったので、神が選んだのであった。聖書は一貫して謙遜を強調している。
すっかり日本語に定着したプライドは、カッコいい響きがある。だからテレビドラマのタイトルになったり格闘技の大会名で使われる。でもプライドより、謙遜で生きてゆくほうが肩がこらないし、楽なような気がする。何よりも謙遜は私たちが生きてく中でで最大の課題である「人間関係」をスムーズにさせてくれる。
さんあいの子どもたちよ、あなたたちが社会に出た時、不条理な制度や差別に苦しむことがあるだろう。また人間関係に悩むことは避けられない。そんな時、プライドではなくむしろ謙遜で生きてゆこう。そのほうが楽だ。馬鹿にされることもあるかもしれない。でも心配はいらない、あなたたちの尊厳は永遠なのだから。
ミッキーは誰にも優しい、優しさはプライドにまさる。