これ、大切なんだけれど、お話しするの忘れてました。
簡単に言うと、
「宗教は時間と共に劣化する」
ということです。
世の中は、歴史と共に発展してきてますか?
こういうの、判断が難しいんけどね。
科学技術に限れば、進んでる、と、言えますかね?
何で考えるとわかり易いですかねえ・・・・。
まあ、いいや、例えば、自動車。
はじめてできた自動車と、今の自動車を比べると、性能的には比較にならないほど、今の自動車の方が優れてますよね?
いや、哲学の話はなしですよ。
純粋に、技術的な話。
時間と共に技術が発達して、進化しました。
老舗の重みと言うのも、そういうところですよね?
味や技術が維持されてきただけではなく、長い時間かけて、だんだん進歩してきてるから、重みがあるんですよね。
他の店には真似のできない良さがある、みたいなことになるわけです。
そんなことを、私たち、経験則で学んでいるものですから、なんか、歴史があると、古いものより新しいものが良いものだ、みたいに思い込んでること、ありませんか?
仏教も、二千五百年も歴史があるものですから、何となく、そう思われていそうな気がするんですよ。
「二千五百年かけて育てられてきた英知」
という、「中国四千年の歴史」みたいな話です。
小乗仏教が、ずーっと発展してきて、それで、大乗仏教になった。
だから、大乗仏教の方が優れている。
こんな、勘違いをしている人には、かなりの数お目にかかりました。
違いますからね。
学術的には、「小乗仏教」と「大乗仏教」との間に、「思想的接点は無い」とまで、言う専門家が多いくらい、まったくの別物です。
※「小乗」という呼び方には批判もありますが、部派とか上座部とか呼べとかね、ここでは、一番通りが良いので「小乗」を使いますね。※※
同じ仏教じゃないの?
と、言われるかもしれませんが、同じ仏教じゃないんです。
なんで、そんなことになるの?ということを説明するために必要なのが、
「宗教は時間と共に劣化する」
という、事実に即した歴史観なのです。
「宗教は生モノだから、腐る」
と、覚えておいていただいても、間違いではないかもしれません。
善玉発酵は稀です。
熟成もされません。
普通に、劣化、もしくは異化します。
腐るか、さもなければ、全く別物になってしまう、つまり、「異化」してしまうのです。
それはもう宗教の宿命と言う他ありません。
何も難しい話ではありません。
仏教で説明します。
お釈迦様の、「純粋な教え」を「ベスト」だとします。
それは、お釈迦様のお口から、「言葉」として外に伝えられます。
その時には、もうすでに、「ベスト」は「ベスト」でなくなり始めるのです。
なぜか?
それは、聞き手が、それぞれの能力に応じた理解しかできないからです。
聞き手が複数であれば、複数のお釈迦様の教えが、そこで誕生します。
つまりは、伝言ゲームのような事態が必ず起きるのです。
中には、お釈迦様の教えを正確に理解できた人もいたとは思いますが、お釈迦様が有能な方であればあるほど、その期待値は下がりますよね。
そんな伝言ゲームが繰り返されるだけでなく、そこに、個人間の競争原理や、経済問題が絡まってきます。
さらに、組織化されると、セクトの論理が働き始め、利権や覇権を求め、果てしなき抗争が幕を開けます。
「勝つためなら、何でもあり」
必要なのは、他セクトとの差別化、つまりは独自性です。
同じお釈迦様の教えを受け継ぐ人たちが、独自性を強調しはじめるのですから、それは、結局のところ、
「どれだけ、お釈迦様を忘れることができるか」
という競争になってしまいます。
「釈尊なき戦い」の勃発です。
そんな様相を呈するようになるのに、それほど時間はかかりません。
求めるべきは「覚り」ではなく「利得」。
得にならない思想など、どんな風にでも曲がります。
やがて、「仏弟子(お釈迦様の弟子)」を名乗る、「お釈迦様の教え」とは、似ても似つかぬ「教義」を持つ「仏教教団」が、雨後の筍のように林立することになります。
純粋なお釈迦様の教えが「ベスト」であるとすれば、紛れもなく「劣化」だし、それらに、何らかの価値を認めるのであれば、「異化」ということになります。
これ、本当に、どうしようもない、宗教の宿命だと思います。
特に、お釈迦様の教えは、世俗的価値を悉く否定しますから、世俗に阿りたい人には不向きですよね。
お釈迦様は「インド的価値観」を壊しました。
だから「仏教」というのは、
「インドで生まれた、脱インド(脱ヒンドゥイズム)な思想」
と言えるわけですよ。
なので、それが劣化すると、再インド化が始まります。
その現象を、私は「インドがえり」と呼んでおります。
「インドがえり」は、恐らく、お釈迦様御存命中から始まっていたのだと思います。
そんなこんなで、お釈迦様没後五百年もすると、どうなると思いますか?
「仏教は、すっかり、お釈迦様の教えとは違うものになっていた」
としても、不思議じゃありませんよね?
大きな声では言えませんが、そんな仏教が、「部派仏教」として大成を見た、所謂「小乗仏教」であると考えられるわけですよ。
この話、楽しくなってきたので、続けます・・・・。
(見真塾サルブツ通信Vol.0046より)
簡単に言うと、
「宗教は時間と共に劣化する」
ということです。
世の中は、歴史と共に発展してきてますか?
こういうの、判断が難しいんけどね。
科学技術に限れば、進んでる、と、言えますかね?
何で考えるとわかり易いですかねえ・・・・。
まあ、いいや、例えば、自動車。
はじめてできた自動車と、今の自動車を比べると、性能的には比較にならないほど、今の自動車の方が優れてますよね?
いや、哲学の話はなしですよ。
純粋に、技術的な話。
時間と共に技術が発達して、進化しました。
老舗の重みと言うのも、そういうところですよね?
味や技術が維持されてきただけではなく、長い時間かけて、だんだん進歩してきてるから、重みがあるんですよね。
他の店には真似のできない良さがある、みたいなことになるわけです。
そんなことを、私たち、経験則で学んでいるものですから、なんか、歴史があると、古いものより新しいものが良いものだ、みたいに思い込んでること、ありませんか?
仏教も、二千五百年も歴史があるものですから、何となく、そう思われていそうな気がするんですよ。
「二千五百年かけて育てられてきた英知」
という、「中国四千年の歴史」みたいな話です。
小乗仏教が、ずーっと発展してきて、それで、大乗仏教になった。
だから、大乗仏教の方が優れている。
こんな、勘違いをしている人には、かなりの数お目にかかりました。
違いますからね。
学術的には、「小乗仏教」と「大乗仏教」との間に、「思想的接点は無い」とまで、言う専門家が多いくらい、まったくの別物です。
※「小乗」という呼び方には批判もありますが、部派とか上座部とか呼べとかね、ここでは、一番通りが良いので「小乗」を使いますね。※※
同じ仏教じゃないの?
と、言われるかもしれませんが、同じ仏教じゃないんです。
なんで、そんなことになるの?ということを説明するために必要なのが、
「宗教は時間と共に劣化する」
という、事実に即した歴史観なのです。
「宗教は生モノだから、腐る」
と、覚えておいていただいても、間違いではないかもしれません。
善玉発酵は稀です。
熟成もされません。
普通に、劣化、もしくは異化します。
腐るか、さもなければ、全く別物になってしまう、つまり、「異化」してしまうのです。
それはもう宗教の宿命と言う他ありません。
何も難しい話ではありません。
仏教で説明します。
お釈迦様の、「純粋な教え」を「ベスト」だとします。
それは、お釈迦様のお口から、「言葉」として外に伝えられます。
その時には、もうすでに、「ベスト」は「ベスト」でなくなり始めるのです。
なぜか?
それは、聞き手が、それぞれの能力に応じた理解しかできないからです。
聞き手が複数であれば、複数のお釈迦様の教えが、そこで誕生します。
つまりは、伝言ゲームのような事態が必ず起きるのです。
中には、お釈迦様の教えを正確に理解できた人もいたとは思いますが、お釈迦様が有能な方であればあるほど、その期待値は下がりますよね。
そんな伝言ゲームが繰り返されるだけでなく、そこに、個人間の競争原理や、経済問題が絡まってきます。
さらに、組織化されると、セクトの論理が働き始め、利権や覇権を求め、果てしなき抗争が幕を開けます。
「勝つためなら、何でもあり」
必要なのは、他セクトとの差別化、つまりは独自性です。
同じお釈迦様の教えを受け継ぐ人たちが、独自性を強調しはじめるのですから、それは、結局のところ、
「どれだけ、お釈迦様を忘れることができるか」
という競争になってしまいます。
「釈尊なき戦い」の勃発です。
そんな様相を呈するようになるのに、それほど時間はかかりません。
求めるべきは「覚り」ではなく「利得」。
得にならない思想など、どんな風にでも曲がります。
やがて、「仏弟子(お釈迦様の弟子)」を名乗る、「お釈迦様の教え」とは、似ても似つかぬ「教義」を持つ「仏教教団」が、雨後の筍のように林立することになります。
純粋なお釈迦様の教えが「ベスト」であるとすれば、紛れもなく「劣化」だし、それらに、何らかの価値を認めるのであれば、「異化」ということになります。
これ、本当に、どうしようもない、宗教の宿命だと思います。
特に、お釈迦様の教えは、世俗的価値を悉く否定しますから、世俗に阿りたい人には不向きですよね。
お釈迦様は「インド的価値観」を壊しました。
だから「仏教」というのは、
「インドで生まれた、脱インド(脱ヒンドゥイズム)な思想」
と言えるわけですよ。
なので、それが劣化すると、再インド化が始まります。
その現象を、私は「インドがえり」と呼んでおります。
「インドがえり」は、恐らく、お釈迦様御存命中から始まっていたのだと思います。
そんなこんなで、お釈迦様没後五百年もすると、どうなると思いますか?
「仏教は、すっかり、お釈迦様の教えとは違うものになっていた」
としても、不思議じゃありませんよね?
大きな声では言えませんが、そんな仏教が、「部派仏教」として大成を見た、所謂「小乗仏教」であると考えられるわけですよ。
この話、楽しくなってきたので、続けます・・・・。
(見真塾サルブツ通信Vol.0046より)