こがら通信

書き残したいこと

川上弘美さんを知る

2021-08-14 16:46:40 | 読書
   ブログのお蔭で、川上弘美さんを知った。
 既に小説を沢山書かれて、芥川賞ほか数々の賞を取っている有名な作家ということも初めて知った。
 どんな文章をお書きなのか、アマゾンに『ゆっくりさよならをとなえる』というエッセイ集を注文していたのが届き、まずは「はじめての本」を読んでみた。
 私は、人の文章を鑑賞するのに、お気に入りの文章そのままをパソコンで印字してみている(昔はノートに筆記していた)。こうすると、著者の心がより解り、文章の工夫・推敲の跡も見えて、自分の文章書きの糧にもできるので。 

 小さい頃は本を読まなかった。
 本を読むよりも面白いことが、山のようにあった。人形たちの世話もしなければならなかったし、友達と「基地」を作らねばならなかったし、原っぱでバッタ捕りももしなければならなかったし、ぷーぷーラッパを鳴らしながらやって来るおとうふ屋さんを呼び止めもしなければならなかった。

 この出だしの調子に乗せられて、次はと読まされて行くのだが、

 本を読むようになったのは、小学三年のときに病気をして以来である。病気といったってそれほどの大病ではない。それでも学期始めから夏休みが終わるまで、床につかなければならなかったのだ。

 こうして、買ってもらった漫画、クラスメートからの手紙は何度も読み、「つまんないよう」とお母さんに文句を言って、「本でも読めばいいじゃない」と返され、「しぶしぶ読み始める」が、これが読めなかったのだそうで、この方にしてと意外だった。

  「読めない。つまんない。」と私は母に言ったのだったか。「しょうがない子ね」と嘆きながら、母は仕方なしに、読み聞かせをしてくれたのである。
 驚いた。自分で読んでいるときには面白くもなんともなかった本だつたのに、読んでもらうと、これがめっぽう面白い。わくわくする。本って、こんにいいものだったのかと、ぼうぜんとした。毎日母に読み聞かせをしてもらう時間は、黄金のひとときとなった。
 一冊全部を聞かせてもらった後に、こんどは同じ本を自分で読んでみた。読めたか? 読めた。ここに至り、ようやく私は本を読めるようになったのであった。


 著者は書いていないが、朗読して聞かせてくれたお母さんのお声は美しく、爽やかで、坦々として、リズムに乗ってお読みになったのではないかと僭越にも思った。そして、病床の私とお母さんが一つになり、その本(『ロビンソン・クールソウー』)の物語に浸り切ったその「黄金のひととき」は、なににも代えがたく、それがきっかけとなって著者が読書の面白さに目覚めたというその瞬間は、たとえようもなく美しく思った。
 読み聞かせをしてくれた素晴らしいお母さんのお姿も見えるようで、私はしみじみとした時間の中で、読むことの歓びを改めて見直していた。



誓い

2021-06-09 14:39:07 | 日記
  年甲斐もなく 20 キロはある新プリンターを持ち上げようとして 「ぎっくり腰」 になり、入院して12日になった。『第一腰椎圧迫骨折』 という診断で、治療は痛め止め注射と痛め止め薬の服用だけ。あとは安静のみ。
  単調な毎日ながら、退屈はしない。
 一時帰宅を許されて、久しぶりにパソコンを開き、このブログを更新できた。
  私はなんでも痛い目に会うとファイトが湧く方である。
  プリンターはカラーも刷れて、これから自分集を手作りしようという矢先のことであった。退院したら、なんとしてもやり遂げなければならない。

蛙の笛

2021-05-25 11:14:20 | 想い出
   月夜のたんぼで コロロ コロロ
   コロロ コロコロ 鳴る笛は
   あれはね あれはね
   あれは蛙の銀の笛 ささ 銀の笛 


  この 『蛙の笛』 は、 昭和二十一年四月十二日に斎藤信夫が作詞したものを、同年八月十八日に海沼実が作曲したとされている。戦後間もなく発表されたわけであり、私もラジオでこれを聴いている。少女の美しい声で耳底に残っている。
  この歌は、今でも歌われているようだし、誰でも聴くことができるのに、私は追想の中で甦らせ、自分で歌ってみることでしか楽しめない。したがって鑑賞というにはあまりにも貧しい味わい方であり、あのころのように背筋に電流が走るような感動を再び体験するまでには到らない。
  とは言え私の場合、この 『蛙の笛』 一つとりあげただけで少年時代のさまざまな思い出が甦り、失われたことどもへの憧憬、手の届かないものへの諦め、そこからかもし出される哀傷と言ったものが、私を悲喜こもごもの境地に誘うのである。


こんなことも

2021-05-16 13:27:07 | 日記
  大変な世の中になったものである。こんなときなにをブログに記していいのか迷うばかり。やむなく昔書いたものや、つまらない言葉で埋めようとなるのである。なにか まし なことでも論じようとすれば、それも年寄りの愚痴として嫌われるだけだろう。
  このブログのお仲間のどの方も 《老い》 という現実を迎え、体になんらかの故障もかかえながら、それに耐えつつ、趣味を深められながら前向きに生きようとされている姿に感銘する。
  いつの時代でも、こんな生き方が、派手ではなく地味なものであっても、実はもっとも大事なものではないか、と私は信じたいのである。

  おとといの 『朝日』 で、平井英子という方の記事があり、ふと目を通したら、「童謡歌手、2月21日老衰で死去、104歳。日本ビクターの第1号専属歌手となり、『アメフリ』 『おぼろづきよ』 『こがねむし』 『てるてる坊主』 を録音。20代で引退し、表舞台から姿を消した」 とある。
  私は 『おぼろづきよ』 が、1943年、国民学校初等科 6 学年の音楽教科書に載り、歌わされたのをここで思い出したのである。

  菜の花畠 (ばたけ) に 入日 (いりひ) 薄れ
       見わたす山の端 
(は) 霞 (かすみ) ふかし
   春風そよ吹く 空を見れば
       夕月かかりて におい淡 
(あわ)

  写真も美しい平井女史は、有名歌手となりながら 20 代でさっさと引退し、家庭生活に没頭したらしいその 〈いさぎよさ〉 にも打たれて、なにか清々しくなった。 


母の背中

2021-05-10 09:41:07 | 想い出
  大谷小学校尋常科二年生の時、私たち南粕川の学童たち約一三〇名は、川向こうの粕川小学校に移動させられた。隣りの大谷村は粕川村のわが長崎地区を挟むように位置していたので、ここを借りて校地とした。そのとき吉田川以南の児童を受け入れるという条件があったようである。それが約五○年ぶりで解消されることになったのである。         
  その問題で父兄たちはかなりもめたらしいことが、私たちにも分かった。あのとき私の父母も、できることなら大谷校にずっといさせたかったようだが、粕川村役場づとめの父は、両村当局の方針でもありこれに従わなければならないと考えていたようだ。私もなんとなく不安でおちつかなかった。
  時は十月頃だったか、よく晴れた日だった。引率の先生とともに徒歩で、みんな二列に並んで、三十分の川向こうの中粕川にある粕川校に初めて足を踏み入れたとき、校庭の真ん中に二宮尊徳の石像が立っているのが目を引いた。そして、大谷校に比べて校舎は小さく、校庭もこぢんまりとしているのに親しみを感じた。
 最初いじめに会うかも知れないと思っていたが、日が経つにつれて、みんな意外とおとなしくて純朴であることを知った。かえって新参の私たちが怖れられていたのである。でも気心がわかるようになり、打ち解ける仲間も増えて行ったが、そうでない者は口をきかないということなどで敵意を示していたのかも知れない。私はそういうことにはわりと鈍感だった。中学卒業も近いころ、例えば進学組とそうでない者たちの間に、超えがたい溝ができているのを認めないわけには行かなかったけれど。
  
  転校して来て、中学卒業までの八年間、奥羽山脈の山々を見ながらの通学は、私の足腰を鍛え、詩情をつちかってくれたことは間違いない。    
  晩秋の頃、襟口から入る朝の冷気を感じつつ、畑に霜が白く敷き詰め、ところどころに葉を落ち尽くした柿の木が立ち、枝に朱い実を点々と残しているところを見ながら登校していたし、冬には、下校途中、ある桑畑のそばを通ったとき、雪に蔽われた畑の斜面の上を、午後の陽光が桑の枯れ木の影を長く尾を引くように見せていたのを目撃したことがあり、それがとても美しく思われたこともある。
  中粕川は、道の片側に木の板を使った側溝があって、澄んだ水が流れていた。粕川大関から取水していたのだろう、水の豊かな地区という印象を持った。東方に田が広がり、その産米で豊かだったらしく、立派な農家ばかりが並び、いずれも庭にコンクリートの水槽があり満々と水を湛えていた。その水は掘りぬき井戸から湧いていた。〈つるべ〉 で汲む長崎地区と違い水源が深かったのだろう、その水を飲むと甘い味がした。   
  母の実家はこの中粕川の中央にあり、農業をやりながら豆腐屋も営んでいたのでかなり裕福だったようだ。小さいとき母に連れられてたびたび訪れた。祖父母やみんなに歓迎されているのが子ども心にも分かった。そんなこともあって中粕川に行くことは楽しいことだった。正月など飴餅に黄な粉をかけたご馳走が出たが、我が家のものとは違ってごつい感じの餅なので、喉につっかえてばかりいた。                             
  母は六番目の私を最後の子と信じていたらしいが (その二年後に弟が生まれた)、よく私を連れて出かけたのである。                  
  中粕川の更に向こうの下り松 (さがりまつ) に母の姪が嫁いでいたので、そこも訪問していた。めったに人に会わないその道を、下駄履きの私たちはカラコロとゆっくり歩いて行った。いいかげん疲れて駄々をこねることもあった私をなだめる母、そして手をひかれて歩いたその長い道は、今なぜかまぶしい。                                     
  その母の姪の、立派な門構えのある家におそるおそる入って行くと、庭の真ん中に水槽があって、その底にまで陽光が射して水の透明さを際立たせていた。庭も家の中も清潔で、家人の表情は優しかった。
  
  また私は、もっと小さい頃の、たぶん二つぐらいの時、母におぶさって、中粕川の糟川寺 (そうせんじ) そばの大きな沼で行われた燈籠流しを観に行った夜のことを思い出す。
  樋口まで到り、そこから長い堤防を通り、その場所に着くまで私は眠っていたらしい、「ほら」 という母の声で目を覚ましたら、暗い中空に提灯 (ちょうちん) が、なにか魔法の力で吊るされているように並んでいた。沼の水面には燈籠が沢山浮かんでいた。燈籠は、ろうそくの灯 (ひ) のゆらめきを見せつつ、沼から用水堀の方へ流れて行った。                
  あの幻想的な体験は、実にその幼い日の夜、母におぶさって、母と共に見たその時だけのものだったのに、はからずも、長い間涸れていた泉がふとまた清水を湧かせることもあるように甦って来た。母はよくぞその 〈きゃしゃ〉 な肩で、長時間私をおぶったまま歩いたものである。 

(2007・夏)