大谷小学校尋常科二年生の時、私たち南粕川の学童たち約一三〇名は、川向こうの粕川小学校に移動させられた。隣りの大谷村は粕川村のわが長崎地区を挟むように位置していたので、ここを借りて校地とした。そのとき吉田川以南の児童を受け入れるという条件があったようである。それが約五○年ぶりで解消されることになったのである。
その問題で父兄たちはかなりもめたらしいことが、私たちにも分かった。あのとき私の父母も、できることなら大谷校にずっといさせたかったようだが、粕川村役場づとめの父は、両村当局の方針でもありこれに従わなければならないと考えていたようだ。私もなんとなく不安でおちつかなかった。
時は十月頃だったか、よく晴れた日だった。引率の先生とともに徒歩で、みんな二列に並んで、三十分の川向こうの中粕川にある粕川校に初めて足を踏み入れたとき、校庭の真ん中に二宮尊徳の石像が立っているのが目を引いた。そして、大谷校に比べて校舎は小さく、校庭もこぢんまりとしているのに親しみを感じた。
最初いじめに会うかも知れないと思っていたが、日が経つにつれて、みんな意外とおとなしくて純朴であることを知った。かえって新参の私たちが怖れられていたのである。でも気心がわかるようになり、打ち解ける仲間も増えて行ったが、そうでない者は口をきかないということなどで敵意を示していたのかも知れない。私はそういうことにはわりと鈍感だった。中学卒業も近いころ、例えば進学組とそうでない者たちの間に、超えがたい溝ができているのを認めないわけには行かなかったけれど。
転校して来て、中学卒業までの八年間、奥羽山脈の山々を見ながらの通学は、私の足腰を鍛え、詩情をつちかってくれたことは間違いない。
晩秋の頃、襟口から入る朝の冷気を感じつつ、畑に霜が白く敷き詰め、ところどころに葉を落ち尽くした柿の木が立ち、枝に朱い実を点々と残しているところを見ながら登校していたし、冬には、下校途中、ある桑畑のそばを通ったとき、雪に蔽われた畑の斜面の上を、午後の陽光が桑の枯れ木の影を長く尾を引くように見せていたのを目撃したことがあり、それがとても美しく思われたこともある。
中粕川は、道の片側に木の板を使った側溝があって、澄んだ水が流れていた。粕川大関から取水していたのだろう、水の豊かな地区という印象を持った。東方に田が広がり、その産米で豊かだったらしく、立派な農家ばかりが並び、いずれも庭にコンクリートの水槽があり満々と水を湛えていた。その水は掘りぬき井戸から湧いていた。〈つるべ〉 で汲む長崎地区と違い水源が深かったのだろう、その水を飲むと甘い味がした。
母の実家はこの中粕川の中央にあり、農業をやりながら豆腐屋も営んでいたのでかなり裕福だったようだ。小さいとき母に連れられてたびたび訪れた。祖父母やみんなに歓迎されているのが子ども心にも分かった。そんなこともあって中粕川に行くことは楽しいことだった。正月など飴餅に黄な粉をかけたご馳走が出たが、我が家のものとは違ってごつい感じの餅なので、喉につっかえてばかりいた。
母は六番目の私を最後の子と信じていたらしいが (その二年後に弟が生まれた)、よく私を連れて出かけたのである。
中粕川の更に向こうの下り松 (さがりまつ) に母の姪が嫁いでいたので、そこも訪問していた。めったに人に会わないその道を、下駄履きの私たちはカラコロとゆっくり歩いて行った。いいかげん疲れて駄々をこねることもあった私をなだめる母、そして手をひかれて歩いたその長い道は、今なぜかまぶしい。
その母の姪の、立派な門構えのある家におそるおそる入って行くと、庭の真ん中に水槽があって、その底にまで陽光が射して水の透明さを際立たせていた。庭も家の中も清潔で、家人の表情は優しかった。
また私は、もっと小さい頃の、たぶん二つぐらいの時、母におぶさって、中粕川の糟川寺 (そうせんじ) そばの大きな沼で行われた燈籠流しを観に行った夜のことを思い出す。
樋口まで到り、そこから長い堤防を通り、その場所に着くまで私は眠っていたらしい、「ほら」 という母の声で目を覚ましたら、暗い中空に提灯 (ちょうちん) が、なにか魔法の力で吊るされているように並んでいた。沼の水面には燈籠が沢山浮かんでいた。燈籠は、ろうそくの灯 (ひ) のゆらめきを見せつつ、沼から用水堀の方へ流れて行った。
あの幻想的な体験は、実にその幼い日の夜、母におぶさって、母と共に見たその時だけのものだったのに、はからずも、長い間涸れていた泉がふとまた清水を湧かせることもあるように甦って来た。母はよくぞその 〈きゃしゃ〉 な肩で、長時間私をおぶったまま歩いたものである。
(2007・夏)