こがら通信

書き残したいこと

きのう私は

2021-05-07 10:43:54 | 日記
  小沢昭一さんの 『散りぎわの花』 というご本で見つけた次の言葉、

  戦争に敗けて、わが家も焼かれた焦土に復員したとき、もう、とことん、散るのはゴメンだと思った私も、半世紀以上タップリ生き永らえて、そろそろ散る段階に入っております。戦(いくさ)に散った兵士たちの「散って甲斐ある命」は、勝利のためには散っても…の真心だったのでしょうが、負けても甲斐がありましたよ。敗戦は、日本という国を、よくしたことに間違いないと、私は信じております。かつての、散らさせた連中への憎しみは消えませんが、散った花へは、ひたすら頭(こうべ)をたれるばかりです。

  に、大いに共感した。
  「敗戦は、日本という国を、よくした」 というくだりに特に感動した。敗戦は沢山の人を死なせ傷つけた犠牲を顧みさせる貴重な体験だったし、そして制定された平和憲法が日本の生きる道を示したと信じた私なので。


『山恋記』に出会って 3

2021-04-24 02:07:23 | 読書
  登山と言えば、かなりの山道を歩くスポーツ的な行動ぐらいとしか思っていなかった私である。それが三浦千鶴子さんの 『山恋記』 を読んで、登山の奥深さを知らされることになり愕然としている。
  もちろん、三浦んの文章のお蔭でそこに誘われたのである。    
  その文章は淡々として、主婦でもある女性により日記を綴るように書かれていると私は思うのだけれど、読後なにかしんみりとしたものが残るという経験は捨てがたく、それをまたどのように表現したものだろうかと悩むのも愉しい。  
  一介の老人としての私がその読書体験からその世界を語るには、あまりにも貧弱な筆力である。それでもその魅力を誰かに伝えたいという気持ちを抑え切れない。

 著者略歴によれば、三浦さんは1930年のお生まれである。私より4年も早い。
  1967年ごろ立川市のけやき台団地に住むようになり、10年後山登りを始めたとあるから三浦さんはこの時47歳である。

  このK団地に住みついてから十年になる私は、奥多摩の山々をいつもベランダから眺めていた。晴れた日の明るい藍色。雲が多いと少し陰った藍になり、雨の日はその藍色が、灰色の膜をかぶって隠れてしまう。いつ見ても倦(あ)きない山の表情だった。一人娘が中学生になると、私は早速同好会に参加した。初めのうちは、夫や娘も一緒についてきたが、次第に行くのを渋るようになり、近頃はほとんど私一人が出かけるようになっていたのである。

  けやき台の登山同好会会員になり登山家として出発した三浦さんは、その30年ほど前に、同人誌 『文学地帯』 に加入していられるので、その経歴から、登山経験とその文学的結果のお蔭で、私は三浦さんに大いに影響されることになったわけである。


『山恋記』に出会って 2

2021-04-14 09:22:02 | 読書
  なんという文章だろう。
 これまでの私の長い読書生活でも、これほど美しくて、深くて、しみじみとしたものを与えてくれる文章は稀有である。
  『山恋記』 は、要約するとか、数行を抜き書きするとかはとてもできない文章で書かれた200ページの本である。その感動を人に伝えたければ、全ページをここにそのまま列記するほかない。
  この一冊は、書店では売られていないし、自費出版されたのかも知れず、たまたまあるお人 (著者と近い方) がブログで紹介されたので、私はすぐアマゾンで探してちょうどそこにあったので、装丁も美しいこの本を入手できた。その僥倖の不思議さ。

 多分私は、ただ読書の愉しみだけを求めて来て、いい文章に出会えた歓びをこの年になってまた新たにしたのである。
  私はまだ細かい活字が読めて、著者の書かんとしたものを素直に味わえる柔軟性のようなものを失っていない。試みに高校時代、耳の治療のために入院していたときに、英語の鴫原先生からお借りして読んだのと同じ 『ジャン・クリストフ』 (岩波文庫・豊島与志雄訳) を取り上げても、その文章がいつになくしんみりと読めたのである。そしてそのロマン・ロランの長編にまた浸ってみたくなった。

『山恋記』に出会って 

2021-04-11 09:24:54 | 読書
  私は登山の趣味を持たなかった。別に高所恐怖症でもなかったが、生活に追われてとても高い山に登るという気にはなれなかった。
 二十代で 「山を見ることによって感動するためには、山の全容を遠くから仰ぎ見るという姿勢が必要であるように思われる」 などと生意気なことを書いて自分を慰めていた。
  このたび、ブログのお仲間のお蔭で、三浦千鶴子さんという方の 『山恋記』 という本で登山の魅力を余すところなく知らされる機会に恵まれた。
 この本に出会えてまだ間もないのだけれど、まず全体を通読して、あと一篇ずつ選んで精読しているが、どのページでも目の覚める思いをしている。以来毎日ページを開いては改めて読書の歓びに浸っている。

  巻頭の最初の数行を読んで既に私は、この著者の展開する物語にすんなりとついて行きたくなる暗示を受けた。

  奥多摩の水根沢入口のバス停に降りたとき、私は微 (かす) かに身震いをした。五月末の、水を浴びたあとのような周囲の若葉が、あまりにも眩しくてふと気が高ぶったのか、それとも深い樹林の中に消え入っている、山道の細さに茫とした不安を感じたのか、それは自分でもよく判らなかった。(「青い蝉しぐれ」)

 ごく普通の言葉で書かれ、読点一つにも行き届いた著者の感性の豊かさに導かれながら、私はもういちどこの人生を見直したいという気持にもなった。
  「水を浴びたあとのような周囲の若葉 」 のように、身も心もフレッシュになれることを期して、そして気づいたことを、折々に記して行こう。

(これからずっと、いいと思ったお言葉を引用したいので、故人になられた著者のお許しを乞いつつ)。


ある思い出

2021-04-09 01:29:53 | 想い出
  中学一年の夏休みの終わりごろ、五人の仲間といっしょに塩釜に遊びに行ったことがある。高城駅まで歩き、まだ運行回数も少なかった電車で、高城、松島海岸、浜田、東塩釜、本塩釜と乗って行った。   
  塩釜では、有名な塩釜神社にお参りし、商店街をぶらつき、船着場の方に行って海や船を見るぐらいであったが、みんなと街を歩くことに特別楽しいものがあった。不良などにたかられるかも知れないという恐れは全くないという安心感もあったし、私はいささか得意にもなっていた。そして、最年少の耳の遠い私を、心なしかみんなは普段より優しくしてくれているように思った。     

  午後四時ごろ駅にもどり、帰りのキップが買えないと分かったとき、みんなの顔が青くなったように見えた。電車に乗れなければ、はるばる来た道を今から歩いて帰って行かなければならない。太平洋戦争に敗れて間もなかったとは言え、これほど電車に乗ることを制限されているとは思わなかった。それまでの浮き浮きした気持ちは、たちまちしぼんで行った。だが、リーダーのKさんの 「歩いて帰るからな」 の一言で、みんなは迷わず歩き出した。私より四歳上のKさんは、海軍電信兵に志願し、すぐ終戦となったので復員して来て、また私たちと遊んでくれたのである。                              
  そのKさんも、他のみんなも、私と違って体力は二倍も三倍もあるような人ばかりだったから、塩釜から歩かなければならない道のりは、それほど深刻ではなかったかも知れない。私は、初めて体験する約三十キロの距離である。既に足のだるさを感じていたし、なによりも空腹だった。東塩釜を通過してしばらく行くと海岸が見えて来る。右側に海岸、左に線路が並行していて、そこを警笛を鳴らしながら三輌ほどで編成された電車が通過して行くのを横目で見ながら歩いた。                                 
  〈たそがれ〉 の海は、牡蠣や海苔を養殖するためのものらしい筏 (いかだ) などが浮かび、にび色に澄んでいて静かだった。それが美しいと思った。そして浜田に到り、そこから松島に通じる道に入ったあたりからすっかり暮れて暗くなった。塩松道路と言われていたこのコースは、そのころは海岸沿いの何度も迂回する未舗装の旧道であったから、行けども行けども同じ所を堂々めぐりしているのではないか、という気持ちにも襲われた。みんなはただ黙々と歩いたのだったと思う。私も、やせがまんだけは強い方だったから、みんなに 〈はぐれ〉 ないように必死について行ったのである。                              

  その時の私を印象づけたものは、時々すれ違った進駐軍のジープだった。松島や石巻に遊びに行ったらしいアメリカ兵たちが、仙台のキャンプに帰って行ったのだろう、エンジンの唸る音や、あの独特のギザギザしたタイヤが土面を蹴る音などを響かせながら、土ぼこりを巻き上げて (後続のジープのライトがそれを示した)、私たちをあざ笑うかのように疾走して行った。あの暗やみの中で見たジープの前照灯の強烈な明るさが、今もこの目に焼きついて離れない。                                      
  それまでこのジープについては、その小さな姿に似合わず、例えば塩釜様の急で長い石段を楽々と登ったということを聞いていた。それは四輪駆動という、そのころの日本車には見られない性能を持つものであったからできたらしかったのである。そのジープが、良質のガソリンをたっぷり使い、馬力があり、かなりのスピードを出せるものであること、照明は昼をあざむくほどの明るさであることを見せつけられ、私はアメリカの豊富な物質文明の一端を知る思いだったのである。そのジープが通り過ぎると、再び闇のなかに私たちは置かれた。遠くの岬の方で灯台の明かりが点滅していた。                         

  かっこよく走って行くジープに比べて、電車に乗れなかった私たちは惨めだった。しかし、仲間といっしょだという気持ちが、私の意気を沮喪させなかったことも確かである。少なくともみんなの足音が、私たちはいま心を一つにして行動しているのだという思いをさせた。身辺の音というものはいかに心強いものであるか、それが立体的に私を包んで、暗闇の中を歩く不安をなくさせていたのである。
  そんなふうにして、とうとう松島海岸通りの灯が見えるところまで来て、元気をとりもどし、郡境を越え田布施に入ったら、心配して迎えに来てくれた姉たちに会った。家に着いたのは八時ごろだったと思う。  
  囲炉裏ばたに座っていた父は黙って私を見た。母はすぐ食事の用意をしてくれた。         

(1998・秋