サザンVネットの ブログ です

熟年者ばかりのボランティア グループ 『サザンVネット』が
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220331 第101回泉北近郊ウォーキング<願昭寺:富田林市>

2022-04-23 | 泉北近郊ウォーキング


2022年3月31日 ソメイヨシノの開花時期に合わせてウォーキングをセットしたが、あいにくの曇り空。12時頃から雨の予想だが、昼前に願昭寺に到着できれば、帰りは最寄り駅までわずかの距離なので催行する。
(予想通り12時半ごろから雨が降り出したので、写真は4/4に撮影したものも入れて投稿しています)

泉北高速鉄道泉ヶ丘駅から、河内長野行きのバスに乗車し、南海線千代田駅から願昭寺に向かう。
 

 

 

途中千代田神社に参拝する。大きなさざれ石がおかれていて、国歌「君が代」の看板が上がっていた。さすが楠木正成が活躍した土地柄。
 
                          さざれ石
 

汐ノ宮駅方面に少し行くと、見事な桃の花に出会った。

 

近鉄電車汐ノ宮駅から、東へ向かうと願昭寺の五重塔が見えてくる。かなりきつい坂だが、桜並木を見ながの参道を登る。

 

 

 

願昭寺への入り口の手前(五重塔、鐘楼の手前)に、仁王門(慶照門)が建設され、そこへの階段は工事中であった。参道を更に登り、本堂脇から入る。

何度見ても素晴らしい五重塔である。この五重塔は、平成23年に竣工し、大阪で唯一の木造瓦葺き、高さ37.27mで日本で10番目の高さである。大成建設が建設した。
 大成建設のページへ




今回は仁王門が出来たというので、仁王門に向かうが、ここで雨が降り出した。
本堂の階段か廊下で弁当にしようと、社務所に了解を戴きに伺ったところ、信徒会館の座敷でどうぞと案内された上に、茶菓のご馳走に与り、誠に楽しい昼食となった。
 

小雨になったころ、本堂の見学のみし、傘をさして汐ノ宮に向かう。


後日、天気の良い日に写真を 撮ってきたので下記に紹介する。

 

新しく建築された仁王門(慶照門)と阿形、吽形


 

 

 

仁王門の内側に設置されている像(名前はわからず)
 

鐘楼堂 鐘楼は重さ12トンあり、全国4位。総ケヤキ造りで、なんと12本の柱で支えられている。


 

下の写真はサムネイル版で、クリックで表示され、もう一度クリックで拡大できる。
   

    

第99回<石上神宮(いそのかみじんぐう)・長岳寺:山の辺の道>

2021-12-27 | 泉北近郊ウォーキング
11月23日第99回泉北近郊ウォーキングは、長岳寺の紅葉を求めて、天理の石上神宮から山の辺の道を長岳寺まで歩きました。


近鉄天理駅を降りると、コフフン(CoFuFun)と呼ばれる不思議な建物群が目に入る。
古墳をさかさまにしてステージにした、ステージコフンは屋上には巨大なドーム型のトランポリンがあり、子供たちの人気スポットとなっている。
 
     ステージコフン           カフェレストランと観光案内所

すりばちコフンと言うすり鉢のそこまで滑り降りて、ぐるぐる回りながら駆け上がる遊具もある。
駅の方を振り返ると、三角縁神獣鏡のモニュメントがある。
杣之内火葬墳(ソマノウチカソウフン)出土の怪獣葡萄鏡(カイジュウブドウキョウ)と呼ばれる鏡で、1,200年前(唐時代)中国の西安地方で造られた物と言う。

      すりばちコフン           怪獣葡萄鏡

高齢者のグループなので出来るだけ歩く距離を少なくしようと、近鉄天理駅から石上神宮までコミュニティバスで移動した。天理市内を巡るバスなので、天理教の本部や、黄葉した銀杏並木を車窓から見ることが出来た。小さなコミュニティバスで10席しかなく立っていたので写真は撮れずじまいだった。

石上神宮前で下車し、神宮に向かう。鳥居をくぐってしばらく行くと、放し飼いされたニワトリが迎えてくれた。東天紅、烏骨鶏など珍しいニワトリが走り回っている。
石上神宮は、改修中であった。
 

 

 
        東天紅               烏骨鶏(右側)

 

石上神宮は、第十代崇神天皇の御代に建設された物部氏の総氏神を祀る社で、百済から送られた七枝刀(ななつさやのたち:七支刀)が神庫に保管されていることで有名です。
主祭神は、布都御魂大神(フツノミタマオオカミ:スサノオノミコトの父)
     布留御魂大神(フルノミタマオオカミ:ニギハヤヒノミコト:スサノオノミコトの5男)
     布都斯魂大神(フツシミタマオオカミ:スサノオノミコト)
すべて、出雲の神様である。「日本書紀」「古事記」では、神話として記載されていて、神代の時代に祭り上げられているが、実在の人物ではないのか?
歴史学者の多くは、物部氏の伝承を詳細に記した「先代旧事本記(せんだいくじほんき)」を、平安時代の初期に物部系の人物によって編纂された書物なので偽書とみなしているが、実は本当の歴史が隠されているように思われる。

記紀以前の資料を基に調査し発行された本を2冊紹介する。興味のある方は是非読んでほしい。

記紀以前の資料による「古代日本正史」著者:原田常治 発行所:㈱同志社(現在の㈱婦人生活社)
「古代ヤマト王権の縁起と伝承」記紀に消されたニギハヤヒ命の実像 著者:木村博昭 発行所:批評社

これらの書物によると、
1.出雲族のスサノオノミコトが55歳のころ(5男の大歳尊(オオトシノミコト)が25歳のころ)に九州全土を統治した。この時、それまで九州を治めていた大日霊女貴尊(オオヒミコムチノミコト)との間に3人の子供をもうけている。(多岐理姫、多岐津姫、狭依姫)
2.九州平定が終わると、大歳尊をすぐにヤマトに送っている。(のちのニギハヤヒノミコト)
3.日向族(高天原族)で、九州を治めていた大日霊女貴尊(オオヒミコムチノミコト)の末子:熊野楠日尊と玉依姫の間に生まれた4人目の末子:伊波礼彦(イワレヒコ)が、ヤマトのニギハヤヒノミコトの末子:伊須気依姫(イスケヨリヒメ)に養子として迎えられ神武天皇となる。(記紀で言う神武東遷)
4.大日霊女貴尊は、伊弉諾尊と伊弉冉尊の子とされている。

これで、モヤモヤしていた頭がスッキリしたのは私だけだろうか!

石上神宮を後にして、山の辺の道を長岳寺に向かう。あちこちに万葉歌碑が立つ。
 

 

10月桜なのか、満開の桜に出会う。
 



 

夜都伎神社(やつぎじんじゃ)の入り口は、黄葉がきれいだった。
 

 

民家には、吊るし柿がつるしてあった。また、道端に菊の花が咲いていた。
そんな情緒豊かな山の辺の道を行く。
 



とある民家の瓦塀に出会う。
 

 

 

はじめてみる柿の葉の紅葉が素晴らしい。
右の写真は、船渡地蔵尊。看板の説明書き。
 むかし萱生と竹之内両村で池堀りをしていたところ一枚の石に刻まれた二体のお地蔵さんが出てきました。
お寺へ移そうとしたら運ぶ人たちの足腰に痛みがおこり、さあ大変。
お地蔵さんのたたりかと思われましたが見晴らしの良いこの場所で丁重にお祀りし供養をすると、まあ不思議。痛みはすっかり治りました。
今も腰から下の病気にはこのお地蔵さんのご利益が受けられると聞く。
「天理の昔ばなし」より・・・
地元では「ぽっくり地蔵」とも呼ばれ信仰を集めています。

 

柿本人麻呂の歌碑
 

長岳寺の駐車場のそばにある、天理市トレイルセンターの庭でお弁当。長岳寺についての説明を聞き、そのあと恒例の歌を唄い、長岳寺に向かう。
 

 

 















 

長岳寺を出て、神武天皇陵と言われる行燈山古墳へ
 

黒塚古墳展示館と黒塚古墳を見て、柳本駅に向かう。
 


第98回泉北近郊ウォーキング<岩湧山・ススキ鑑賞>

2021-11-12 | 泉北近郊ウォーキング


2021年10月20日 岩湧山ススキ鑑賞ウォーキングを実施した。
泉北近郊ウォーキングは、2010年9月29日に泉北ニュータウン内泉ヶ丘緑道から始まり、今回で98回を迎える。高齢化が進み、岩湧山は無理かと危ぶみながらも、歩く距離を出来るだけ短くするように、滝畑ダムから往復のコースで開催し、6名の参加を得た。

河内長野駅から滝畑ダム行き始発のバスに乗車。ススキが見ごろで乗車したバスの6割が岩湧山登山客であった。10月14日の下見の時は暑かったが、急に温度が下がり山登りには絶好の天気となった。

滝畑ダムで下車し、川沿いに歩くと「滝畑湖畔観光農林組合」が経営する喫茶・レストランがある。駐車場と滝畑トイレがある。岩湧山山頂までトイレが無いので必ずここで用を足すことが肝要。そのわきに登山道入口がある。急な坂道を上ると林道に出る。林道を横切って更に登山道を登るが、案内標識があり間違う事は無い。
 

 

しばらく急な坂道を上ると、カキザコに出る。(ここまでが急な上り坂 約1時間)
 
下見の時「カキザコ」とは何のことか?何かいわれがあるのか?と帰りに滝畑湖畔観光で聞いてみてもわからない。
インターネットで調べてみると、「柿迫」がヒットし、柿迫姓の人がかなり存在する。更に検索すると、地名で「柿迫」があり、柿林と山との境のこと。とあった。確かなことはわからないが、案外これが正しい様に思われる。

カキザコからは、緩やかな上り下りが続く。歩くこと2時間。杉・檜林をすぎるとススキの山が見えてくる。
 

ここから、山頂までススキの山を登る。階段はかなりきつい。
 

 

途中風が強くり杉林の高いところはしなっていたが、林の中はさわやかな風しか感じなかった。頂上はかなり風が強いのではと思っていたが、ススキ(茅)は背が高く風除け効果が抜群で、ベンチに座っての食事にはほとんど影響がなかった。
山頂から見下ろす景色も素晴らしい。富田林のPLの塔はくっきりと見える。

 

 

 

 

食事の後記念写真を撮り、こじんまりと歌も唄う。
 
「どんぐりころころ」「村祭り」「赤とんぼ」「バラが咲いた」



 

 

元来た道を下りにかかると、珍しいアザミのような花が目に付く。
「ハバヤマボクチ(葉場山火口)」と言う植物で、絶滅危惧種に指定されている。
菊科の多年草 葉はゴボウの葉に似ていて裏面に白綿毛を密生する。
火口は火をおこすときに使うものの名で、ボクチとあるのは葉裏の白綿毛を火口に利用したことに由来する。
葉と葉裏の白綿毛


ススキ山の中腹に、茅を運びおろすケーブルがある。
茅について、河内長野市のホームページに説明があったので、転記します。

  

岩湧山頂に広がる草原は、新河内長野八景「岩湧山頂の花すすき」として市民に親しまれています。一方で、地元では「キトラ」と呼ばれており、約300年前から滝畑の共有地として地区の人々によって代々管理されてきました。
 このカヤ場は、滝畑地区の茅葺民家の屋根葺き替えなどに利用するため、定期的にカヤ刈りや山焼きなどの手入れが行われてきました。近年は、地元の茅葺民家が減少するにつれて、文化財建造物の屋根葺材としても広く利用されるようになってきています。
 岩湧山のカヤは、背丈が長く、株の部分から穂先までまっすぐに伸びており、柔軟性に富んでいます。また、地理的に雪が少なく、十分に乾燥した状態のカヤを刈り取ることができるため、屋根葺材として適しています。現在、全国的に屋根修理用のカヤが不足しており、約7.5ヘクタールにわたって良質なカヤが生育するカヤ場は、資材の供給地として大きな期待が寄せられています。そのため、選定保存地域として選定し、積極的に育成を図ることで、文化財建造物修理用のカヤが安定的に供給できるようになるとともに、カヤ場が育む草原性の貴重な動植物を保護することが可能になると考えられます。

ハイキングや山登りは、年配者がほとんどと思い込んでいたが、今回岩湧山に登って、若い人たちが半数を占めることに驚いた。ひょっとしたらコロナの影響もあるのかもしれない。

第97回泉北近郊ウォーキング<岸和田街歩き> 211005

2021-11-10 | 泉北近郊ウォーキング

   クリックすると全画面表示  岸和田城 八陣の庭

 今回のウォーキングは、岸和田の街並みを歩く”岸和田街歩き”をしました。参加者は17名。
泉北高速鉄道和泉中央駅に集合。南海バスに乗車し、車窓から昨年久米田池ウォーキングで歩いた摩湯山古墳が見え「前に歩いたとこや!」とワイワイ言いながら南海岸和田駅に到着。
  

 岸和田駅前商店街の入り口の左側に”だんじりからくり時計”の一代目が立ち、右側に二代目が壁に欠けられている。動く二代目は見た目は何の変哲もない時計だが、毎時0分になるとだんじり囃子と共に扉が開きだんじりが動き出します。残念ながら見ることが出来なかったので、投稿されていたYouTubeを貼り付けました。


 アーケードが高く広々とした商店街。ここをだんじりが通るので、天井を高くしているとか。さすが”だんじりの街岸和田” 昨年はコロナで中止、今年は期間を短縮して開催された。
 

 商店街を更に海側に行くと湾岸線に出る。左に「波切ホール」右は「ベイサイドモール」
 

 湾岸線との交差点に”看貫場”がある。看貫場とは、漁港で水揚げされた魚の重さをはかる場所の事。(古い言葉やけど、昔大きな時計のような針が前に着いた台秤のことを、カンカンと呼んでいたことを思い出す)
 この広い湾岸線を通行止めにし、ずらりとだんじりが勢ぞろいして、順番に右側の商店街に繰り出して行く。
 看貫場を出るだんじりのYouTubeを張り付けました。


 紀州街道まで戻り右に曲がったところに、旧和泉銀行の建物がある。下見に行った時(だんじりが開催されたあくる日)に、半被姿の元気なおばちゃんに出会い「今度来た時に寄って行って!お茶でも御馳走するから」と誘われていたので厚かましくも総勢17名でお邪魔し歓待された。ゆっくり時間が取れないと連絡して置いたら、お茶のペットボトルを全員分用意していただいた。
 なんとこの建物が売りに出された時に、前の紀州街道をだんじりが通るのを二階から眺めることが出来る絶好の場所なので買い取ったという。市民が利用できるよう解放されている。
 今、80歳、まだまだこれからも元気で120歳まで頑張るよ!」と、意欲とパワーに元気をもらいました。ありがとうございました。


 

「岸和田だんじりの里親」と言われ親しまれている久場共見子さん。著書「情熱、成功への扉」食育・愛育・教育 久場ママからのメッセージ、「挑戦」つよく、やさしく など。
(株)LIP、(株)キューブインターナショナルなどの代表取締役。岸和田商工会議所女性会の監事もされている怪物おばちゃん(失礼!)

 少し南に歩くと岸和田港塔原線出る。出口に欄干橋がある。
 元禄・享保年間は「ギボシのある橋」、天保年間の地図では「欄干橋」とあり、この地域における「道路元標」とされ、他の地域からの距離を示す目印になったという。


  クリックで拡大表示 

 旧四十三銀行のレンガつくりの建物を過ぎると、クランク状のマス形門「堺口門跡」がある。城下町特有のマス形門は、敵の侵入を阻止するために設けられたもので、今やこのクランクをだんじりをいかにうまく通らせるかの技術が競われる名物の箇所で知られている。
 だんじりがぶっつかるたびに壊されるので、角を丸く改装されている。
 

S字をクランクのYouTube



 更に南下し、岸和田自然資料館を見学。ここで岸和田城天守閣、だんじり会館入場の3か所共通券を購入すると割引になるので、お勧めです。
 

 

 こなから坂の標識を左折し、堺阪南線を渡り岸和田市役所の前に出る。堺阪南線から岸和田市役所前は坂になっていて、だんじり祭りの宮入直前の見せ場として有名である。
 
YouTubeの動画を貼り付けます。
坂を駆け上がり、90度カーブを切って岸和田城に向かう。


岸和田城二の丸広場に、櫓を模した二の丸門トイレがある。お城への入り口付近に、イタリアンレストラン「Clibu Contrada」があり、食事が出来るだけでなく、お城側の廊下が一般開放されていて自由に使用できる。サービスでワインクーラーに入れた冷たい水が準備されている。屋外にもテーブル、椅子が置かれている。
無料でこんなサービスがあるのはうれしい。
 

 屋内の廊下と屋外のテーブルにそれぞれ好きなところで弁当を食べた後、恒例の歌の時間。今回は多田先生の指揮で大いに盛り上がる。
 虫の声、月の沙漠、故郷の空、あざみの歌、ちいさい秋見つけた
 

 

大手櫓門を入ると、酒造用に使われていたという甑用大釜(こしきようおおがま)が置かれていた。(米を蒸すために使う大釜で、容積1800ℓ=10石)
   

 天守閣に登り、八陣の庭を見下ろす。岸和田高校の校舎には、天文台が見える。天文台がある高校は珍しい。
 

 

岸和田城「猪伏山(いぶせやま)ちきり城」
建武元年(1334)楠木正成(楠正成)の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。1592年小出秀政によって天守のある城郭として整備され、1640年に岡部宣勝が泉州統治の拠点とした。岸和田藩は5万3千石であったが、城の規模は50万石級の大藩に匹敵する。
ちきりとは、機(はた)のたて糸をまく器具で、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているところから由来する。
 

城を出て、五風荘に向かう。五風荘は岸和田市の指定文化財になっていて、旧岸和田城内の新お茶屋跡などに旧寺田財閥寺田家の二代目当主家の別荘として昭和の初めに造営された回遊式日本庭園。
 







岸和田城をバックに五風荘で記念写真




だんじり会館では、大画面で迫力あるだんじりの映像を見ることが出来る。
 

更に紀州街道を南下し蛸地蔵天性寺に向かう。
天正年間(1573~92)岸和田城が根来・雑賀衆に攻められ落城寸前に大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸が現れ敵兵をなぎ倒し城の危機を救った、数日後、城の堀から矢傷・弾傷を負った地蔵が発見され、城内に収められ、その後天性寺に移されたと伝えられている。
 

 

南海蛸地蔵駅から、電車で帰路につく。
蛸地蔵駅は、大正14年に築かれた南欧風の駅舎、壁面には蛸地蔵縁起のステントグラスがはめ込まれている。
 

第95回泉北近郊ウォーキング<荒山公園と多治速比売神社>

2021-03-20 | 泉北近郊ウォーキング
 2021年3月4日 泉北ニュータウンにある荒山公園の梅園へ泉北高速鉄道泉ヶ丘駅からウォーキングを開催した。コロナウイルス感染拡大で緊急事態宣言が出され、昨年11月に実施した久米田池・久米田寺以来の開催となった。
 今年は梅の開花が早く、緊急事態宣言が解除されるのを待っての開催だったので、盛りを過ぎてしまった。



 泉北高速鉄道泉ヶ丘駅にある、ビッグ・アイ前の広場に集合。参加者は18名。
 泉ヶ丘駅南側のバスロータリーや”いずみがおかひろば”より1段高いデッキでつながる、ビッグ・アイ、ビッグ・バン前の大きな広場は、見晴らしがよく、人通りも少なく、集合場所としては絶好の場所です。

   
サムネイル画像です。クリックで拡大表示されます。

 ビッグ・バンの横から、濁池の脇を通り、南図書館の裏からトンネルを抜けて、大蓮公園に入ると、須恵器の登り窯が展示されている。泉北ニュータウンは、古代、須恵器の大生産地で濁池周辺にも、須恵器の窯が数多くある。
 濁池周辺は、近畿大学医学部と近大病院が泉ヶ丘プールと田園公園に移転するため、公園の代替用地として、整備されることになっている。その際に、窯跡を何らかの形で残してもらう様に「すえむら濁池の窯跡を守る会」が運動をしている。

 

 

 

 大蓮公園にあった「旧泉北すえむら資料館」をリノベーションしたカフェ併設型の民間図書館「THE PARK OHASU」が昨年8月にオープンしたので見学する。施設の屋上にテントを張ることが出来るというが、こんなところにテントを張って、自然を味わえるのだろうか?

 

 

 大蓮池の畔を西に向かい、白鳥橋を渡って、若松台から若竹大橋に出る緑道を行く。
 池の周りと、白鳥橋を渡ったあたりは、3月の末にはソメイヨシノが咲き、楽しませてくれる。
 この泉北ニュータウンは、公園を結ぶ緑道がいたるところに整備されていて、ウォーキングにはもってこいである。おそらく、この緑道は「日本一」であろう! 千里ニュータウンにも、多摩ニュータウンにも匹敵するものはない。

 

 

 緑道から一般道に上がり、若竹大橋を渡って荒山公園に向かう。
 センダンの実が少し残っている。センダンの実は、秋には苦みがあり鳥たちは食べない。冬になって苦みが抜けると鳥たちがやってきて食べるという。
 荒山公園に向かう左側の道路脇には、アメリカフウの林があり、秋は紅葉して目を楽しませてくれる。

 

 荒山公園の南入口の階段を降り、円形公園に入る。ここは、フエニックス、ユーカリ、ワイントンヤシやアツバキミガヨラン、ブラシノキなどがあり、南国ムードが漂う雰囲気がある。

 

 

 近年複合遊具が設置された広場から、梅林に入り東屋の付近で昼食をとる。
 昼食の後、恒例の歌を唄う。
  「うれしいひなまつり」「春の小川」「蝶々」「高校三年生」

 

 

 



 梅園を後にして、多治速比売神社に参拝。


 
 宮司さんの計らいで特別に本殿を参拝出来、説明もいただきました。



 

 

 

 あかしや橋を渡り、泉ヶ丘緑道を、足谷池から竹城台緑道を経て、泉ヶ丘駅に向かう。

   

 


第94回泉北近郊ウォーキング<摩湯山古墳~久米田寺>

2021-01-04 | 泉北近郊ウォーキング
令和2年12月3日、泉北高速鉄道の最終駅和泉中央駅に集合して、摩湯山古墳経由久米田池、久米田寺へ向かった。




エントランスからエスカレータで陸橋に登り、通路を右に出ると、中央公園に出る。公園内の小山は、前方後円墳だとの事。
 

 
                           前方後円墳
 
    龍を模ったものか?

道路は車が多いので、少し遠回りになるが、槇尾川の橋を渡って川沿いの道を歩く。
 

         
    路地に咲くネリネ(ダイヤモンドリリー)   メタセコイア
 
                           奇妙なミカン
川沿いの道から、民家の間を向けると、摩湯山古墳に出る。
 

摩湯山古墳(まゆやまこふん)
 4世紀後半ごろ(前期古墳)の前方後円墳で墳丘全長約200m、口縁部径127mにおよび、前期古墳としては大和地方以外では最大級の規模で、国の指定史跡に指定されている。
 本格的な調査が行われていず、泉州地域で大きな勢力を持った在地首長の墳墓と推定されている。和泉地方の前方後円墳としては、最古級に位置付けられている。

摩湯交差点を左折し、南へ向かう。池の畔にアオサギがいた。ここから振り向くと、古墳のほぼ前景を見ることが出来る。大きい!
 

しばらく行くと、久米田池に突き当たる。この時期はすっかり水が抜かれていて、浅い池だとよくわかる。府内最大の面積を持つ。貯水量では、光明池が最大との事。
 

       
        改修前の排水口(この時期だから見ることが出来た)と現在の排水口
 
久米田池(くめだいけ)
 大阪府から史跡・名勝の指定を受けていて、広さ45.6ha、貯水量157万t、周長約2,650mの大阪府内最大の面積を持ったため池で、僧行基によって奈良時代(725年~738年)14年かけて作られたものとされている。この際に池を管理する施設として、隆池院という寺院が建てられたのが、現在の久米田寺です。
 久米田池は「鳥の国際空港」とも呼ばれ、1年を通して様々な鳥類がエサや休息場所を求めて飛来します。カモ、シラサギ、アオサギ、カワウなどが確認された。
 また、堤を造る工法は、狭山池でも用いられている敷葉工法で、中国や朝鮮半島からもたらされたものです。

 



久米田寺(くめだてら)
 行基によって久米田池を維持管理するため、738年創建されたと伝えられる。永禄年間(1553~1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失し、現在の建物は、江戸時代に再建されたものです。

 
            大門              金堂

 
           開山堂              観音堂

 
           太子堂              多宝塔

 
           靖霊殿             華厳院(塔頭)

 
                   華厳院

 
         明王院(塔頭)            鐘楼

華厳院の左の白壁の間を抜けると、右側に光明皇后塚がある。
 
                           光明皇后塚

道路に出て、左にある墓の中に行基墓がある。大門の左手にある信徒会館の裏手に、三基五輪塔がある。
 
           行基墓             三基五輪塔
三基五輪塔 聖武天皇(しょうむてんのう)、光明皇后、亀山天皇の供養塔と言われている。

道路を渡り、西側の林の中に入っていくと、久米田古墳群がある。築造されたのは発掘調査の結果、その多くは5世紀後半ごろと推定されている。無名塚古墳と風吹山古墳は、発掘調査後に復元され、古墳公園として整備されている。

                    無名塚古墳

 
     風吹山古墳
 風吹山古墳の上で、歌う。
里の秋、もみじ、旅愁、遠くへ行きたい








第93回泉北近郊ウォーキング<大鳥神社~浜寺公園>

2020-12-26 | 泉北近郊ウォーキング

 2020年10月29日 泉北高速鉄道深井駅に集合し、野々宮神社~深井花のこみち~家原寺~大池公園~大鳥神社まで歩き、大鳥神社前から、バスで浜寺公園前までバスで移動し、バラ園の見学をしました。(参加者:17名)

 

 深井駅で待っていると、「初めて参加します」と来られた人がいて、おやっと思い話を聞くと、深井駅集合と聞いて来たが誰も来ていない。開催者とは連絡が取れない。との事。
 出発の前に「誰も来ないなら、ご一緒しませんか?」とお誘いし、参加されることになった。解散時に「また、参加したいので連絡ください」との申し出があった。
以前もなかもず駅に集合して、白鷺公園へ行った時も同じようなことがあり、それ以降何度も当会のウォーキングに参加されている。
こんな、気さくな会だから、長く続いているのかも!

 
 
 出発を前に、深井駅のバス停留所側のロータリーに立つ、モニュメントについて、新井さんから説明を受ける。
駅名の「深井」は行基が「人々のために深い井戸を掘った」ことから地名が「深井」となり、駅名にもなった。そして深井駅建設に当たり「躍水(やくすい)」という水の雫をかたどったこのモニュメントが建てられたとの事。

 駅のすぐ北側に、「野々宮神社」がある。
 400年前に創建されたと伝えられ、素盞嗚尊(すさのおのみこと)と火産霊尊(ほむすびのみこと)が祭られていて、火産霊尊に因み「火の宮」と称されている。
 境内には、撫牛(なでうし)の像がある。撫牛は菅原道真公との関係があるとされているが、素盞嗚尊が祭られているので、牛頭天王との関係があるのではないかと思っている?
また、境内の「常陵郷の森(とこはかのもり)」は堺市保存樹木に指定されています。

 

 

 堺狭山線の野々宮神社前交差点を西に渡ると、「深井花のこみち」に出る。南西に伸びる「深井花のこみち」は高圧線の鉄塔の下を花壇に利用したもので、花壇は地域の住民や、堺市の花のボランティア”花いっぱいゃさかい”の会員が、春、夏、秋、冬と区分けされた花壇で花守りをしている。

 

 

 

 

 

 「深井花のこみち」の終点から、北へ進むと、和泉方面から伊勢詣でに向かう伊勢道に出る。伊勢道の真ん中に伊勢路川が流れていて、下流は石津川に合流する。
 伊勢道は深井清水町から津久野に出るバス通りとほぼ平行に走っている。バス通りは車が多く混雑するが、この道は車はたまに通るくらいで、閑静な住宅街の中で、ジョギングやウォーキングに利用されている。春は桜並木で、知られている。

 

 

 大池の手前を北に行くと、「知恵の文殊さん」で知られる家原寺に出る。行基の生誕の地と言われ、行基が建立した最初の寺です。入試のシーズンになると、たくさんの血とが合格祈願に詣でます。大門を中に入ると、池があり趣のある寺でしたが、いつしか駐車場に改造され、殺風景な寺に様変わりしてしまいました。
 
                          以前の家原寺

家原寺を出て、道路を渡ると、家原大池体育館と家原大池公園に出る。大池公園の鯉を見ながら、駐車場を横切り、石津川を渡って、大鳥神社に向かう。

 

  

 大鳥神社(通称大鳥大社)は、日本武尊が伊吹山で病に倒れ伊勢国で薨去したのち魂が白鳥となって飛び立ち、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀ったのが始まりとされている。
 神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。
本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。近年本殿前の鳥居は新築された。
本殿の入り口には、日本武尊の像がある。

 

 

 



大鳥神社前から、浜寺公園前まで南海バスに乗車する。
浜寺公園の噴水前の松林の中で弁当を食べ、恒例の歌を唄った後、バラ園の見学をする。
「どんぐりころころ」「村祭り」「あかとんぼ」「バラが咲いた」

 

 

 

 

 

 

 

 

20200928第92回泉北近郊ウォーキング<檜尾大橋~美多彌神社~光明池

2020-12-21 | 泉北近郊ウォーキング


 泉北高速鉄道又は泉北1号線を、栂・美木多から光明池に向かうと、真っ赤な大きな橋が目に入る。しかしこの橋を渡ったことが無かった。
 ある日、「須恵器の窯跡を巡るハイキング」で、この橋を渡った。立派な大きな橋だが、橋の両側の道は、幅の狭い道路で、車がすれ違うのが難しいくらいである。そんな道路になんでこんな立派な橋が出来たのか?
 泉北1号線と泉北高速鉄道の建設に当たり、檜尾の村を南北に分断することになり、南側にある墓地に行くのに困ると住民が反対運動をおこしたため、それを解決するために立派な橋を作ったという。
 泉北ニュータウンの住人は、誰でもこの赤い立派な橋は知っていると思うが、おそらく渡った人は少ないのではないか? そんなことで、泉北近郊ウォーキングで、この橋を渡るコースを計画した。

 
泉北高速鉄道光明池駅に集合し、駅にあった付近の地図を見ながら、参加者の新井さんから、檜尾の村が、泉北1号線で分断されたという説明を受け、いざ 出発




 新檜尾公園のメタセコイアをバックに、集合写真を撮る。ハス池には一凛のハスの花が残っていた。


新檜尾公園を出て、ニュータウン内を通り、檜尾の尾根に上がり、細い旧道を檜尾大橋に向かう。

   

 
 檜尾大橋からは、泉北ニュータウンが一望できる。PLの花火の時は、この橋に多くの人が集まるという。栂・美木多方面と、光明池方面の風景。

泉北1号線の南側にある立派な大きな墓を抜けて、美多彌神社に到着。
 
 美多彌神社は、流鏑馬とシリブカガシの森で知られている。2014年に720年ぶりに「流鏑馬祭り」が復活し、2018年3月に2回目の祭りが開催されている。⇒「美多彌神社神社流鏑馬」で検索できます。動画もあります。
 新井さんより、美多彌神社神社についての説明を聞く。

 
 南北朝時代の英雄として知られる大楠公(楠木正成)、楠木家の家紋「菊水の紋」を刻んだ狛犬があるとの事で探す。


「幸せなでいっちん」とシリブカガシのどんぐり

 
美多彌神社の駐車場に、「川柳文学碑」がある。
 この十三基の川柳文学碑は泉北ニュータウンの史跡である小谷城址に昭和五十九年より三度にわたり建立され、平成十八年 この美多彌神社の境内に移設されました。
 文学碑がこれほどまとまって一同に建立されたことは特筆すべきことであり作者は全員番傘川柳社同人で川柳文学に高い志を持って取り組まれた方々です。
 平成十八年 番傘川柳会』記


光明池緑地を、光明池大橋に向かう。


光明池大橋 この場所で手を打つと、「鳴き龍」の様に反響する。




 光明池大橋を和泉市側に渡り、市民体育館の方に行くと、円形劇場がある。付近の木陰で弁当を食べた後、円形劇場で、準備した多田先生と清原先生の伴奏で、「ミニうたごえ広場」を開催。コロナウイルス感染対策で、円形劇場の周りに並び、久しぶりにマスクを外して唄う。
「虫の声」「月の砂漠」「あざみの歌」「小さい秋見つけた」

※「うたごえ広場」
 「パンジョホール」で、月1回、多田先生のキーボードと、清原先生のフルートの演奏でみんなで唄う催しです。平均150名の参加者があり泉北の皆さんに楽しく歌っていただいています。残念ながらコロナウイルス感染対策で、現在は中止しています。再開時には、「泉北コミュニティ」にその旨掲載いたします。
 




第91回泉北近郊ウォーキング<長居植物園>

2020-08-10 | 泉北近郊ウォーキング
 
コロナウイルスによる緊急事態宣言が解除され、久しぶりのウォーキングを、全員マスク着用で開催。参加者18名。もしもの場合連絡が取れるように、電話番号入りの参加者名簿を作成。
 昨年は一心寺のジャカランダが素晴らしかったので、今年は長居公園のジャカランダ見学を計画。
 情報によると、大阪メトロ御堂筋線長居公園駅の1番出口付近にもジャカランダがあるとの事で、少し遠回りになるが1番出口から出る。出てすぐのところにジャカランダの樹はあったが、時期が少し早く高いところで咲き始めたばかりだった。(公園内の樹も同様で残念。見ごろは1週間先か?)


  ペチュニアの寄せ植え

 西口広場、自由広場を通り、長居植物園に向かう。入り口にはスカシユリが見事に咲いていた。
 

 アジサイの花を浮かべた器が涼し気

大花壇で集合写真を撮った後、植物園内は自由行動とした。
まずはバラ園に向かう。
 

 

 トランペッター

バラ園のところどころに、テッセンの花
   

ヘメロカリス園の木陰のベンチでお弁当。ヘメロカリス園には、アモン・アス、スカーレット、クレストウッド・ゴールド、ユウスゲなどが咲いていた。
 
     アモン・アス
 
     スカーレット
 
     クレストウッド・ゴールド
 ユウスゲ

”花いっぱいゃさかい”での活動地「ビックリパーク」に、ニッコウキスゲと聞いていた花があり、ちょっと違うのではと思っていたのは、ヘメロカリスの1種と確信した。スッキリ!。
ビックリパークのヘメロカリス(色は違うが、アモン・アスにそっくり)
 

 因みに、ヘメロカリスとは、日本や中国原産のユウスゲ、ニッコウキスゲやカンゾウ(ノカンゾウ、ヤブカンゾウなど)を基として、欧米で品種改良して生まれたもので、別名「デイリリー」と言われ、ひとつひとつの花の命は短く1日でしぼんでしまう。たくさんのつぼみを付けるので、次々と開花するので長く楽しめる。

昼食の後はダリア園へ
 

 

 

 

 スカシユリ

ちょっと珍しいアジサイ 「イワガラミ」に出会う
 



大池の周りを巡り、ハナショウブ園に。
 

 



池には珍しい黄色いスイレンの花がいっぱい咲いていた。
 

ラクウショウの通り 木陰が涼しい
 

大池
 


第90回泉北近郊ウォーキング<三原台のコブシと高倉寺>

2020-04-03 | 泉北近郊ウォーキング


 2020年3月19日 新型コロナウイルス感染拡大で、会合やボランティア活動の自粛が続き、気分が滅入りストレスが溜まる中、屋外での活動、参加者が完全に把握できることで、マスク着用で、ウォーキングを決行する。
 参加人数は、19名と普段と変わりが無い。「自粛、自粛で行くところがなく、ストレスが溜まる中、よう決行してくれたと」お褒めの言葉。



泉北泉ヶ丘駅北側の、郵便局前に集合して、彼岸桜を眺めながら、竹原大橋に向かう。

 

 

 

 竹原大橋を渡ると、ピンクがかった色のコブシが咲いていた。 近大病院の移転が決まり、撤去が始まっている泉ヶ丘プール方面にも、コブシの樹がある。

  

 泉北ニュータウンの他の地域と同じように、三原台の街路樹も、サワグルミとニワウルシが植えられていて、毎年強剪定が繰り返され、見苦しい状況が長く続いた。自治会がしっかりしていたのか、いち早く、コブシに植え替えられ、春先には真っ白な花を咲かせるようになった。

 東大谷高校の前を通り、泉北北線に向かう。 マンション群で朝日が当たらないところは、まだつぼみの状態であった
 

 泉北高速鉄道沿いのこの地区は、企業の社宅と、若者の単身者向けのヤングタウンがあったところで、企業の撤退した跡地に次々と民間のマンションが建ち、老齢化による子供たちの減少が著しい泉北ニュータウンの中では、まだ子供たちの多い地域である。
 泉北高速鉄道沿いには、ハナズオウが植栽された。19日の時点では、まだつぼみが固い状態であったが、3月末には、濃いピンクの花をつけ、早く咲いたサクラ、コブシ、ハナズオウが楽しめた。

  
 泉ヶ丘プールの西側の遊歩道には、ハクモクレンとコブシの花が、満開であった。

 泉北北線の北側の土手に、ビックリパークという公園?がある。<中区田園>堺市は公園として認めていないので、正式には、泉北北線の法面扱いである)
 いつ頃からか、社会福祉法人 きぼうの会が大阪府のアドプト・ロード(政令都市になってからは、堺市に移管)に申請して施設に通う障がい者たちの活動地となり、花壇つくり、清掃活動が行われるようになり、サクラの樹もたくさん植えられ、道路も整備された。泉北北線からは、見えにくく気づかない人も多かったが、サクラの樹も大きくなり、今年はよく見えるようになった。
 

 堺市公園協会と協働で、堺を花いっぱいの街”にと活動する、花いっぱいゃさかい”のメンバー3人がここで一緒に活動している。田園地区で昔からここで活動している人もいる。
 

このブログを上げるころには、ヤマブキの花が咲いています。一度散策に来てください。

 泉北北線から、岸池の東側の通りが、コブシ通りと呼んでいる通りである。

 

 

三原台地域会館前を過ぎ、泉ヶ丘緑道に入り、高倉公園に向かう。
  

 

高倉公園を過ぎ、しばらく行くとコンクリートで作られた、モニュメント(名前が無い?)があり、そこで弁当を食べ、恒例の歌を唄う。 写真のアップは控えたが、散歩に来ていた親子が参加して一緒に唄ってくれた。


 

 モニュメントから、緑道を西に歩き、休村を抜け高倉寺に向かう。村の軒には、プランターに植えたサクラソウが満開であった。

 

 高倉寺へ上る階段の左手に、宝積院(ほうしゃくいん)があり、本堂の裏に、織田信長による焼き討ち後、豊臣秀吉の命で造園されたと伝わる小堀遠州による「亀」の庭園と茶室「寶聚庵」(ほうじゅあん)があります。茶室は、豊臣秀吉により「寶積院」と「聚楽第」の頭文字をとって「寶聚庵」と命名されたと伝わっています。住職のお話によると、根来衆との戦いの際に豊臣秀吉がここを本陣とした際に、茶室を築いたとの事でした。

 
        宝積院               寶聚庵

 高倉寺は、真言宗高野山金剛峯寺真末一等格院で、慶雲2年(705)に行基により生家「家原寺」に次いで「行基開創49院」の第一番目「大須惠院」として建立されました。

 寺号の「須惠」は、須惠器の「陶(すえ)」に由来するもので、704年鎮護国家を祈る山林苦修練行と仏教学の研究にあけくれる官寺の修業を断念し37歳にして生家(河内国大鳥郡蜂田郷家原村)に帰った行基を郷里の人々は偉大な修行者として迎え、人々に請われて須惠器生産の斜陽化しつつある大村里(現堺市高倉台)の再興を期して「聚落の仏教」の実践を目指し名づけられたと伝えられています。

 810年、弘法大師が参来され密教の潅頂(頭頂に水を灌ぎ正統な継承者とする為の儀式)の道場を構え、大日如来の尊像を彫り宝塔を建立してこれを安置されました。

 平安末期には、当寺に御行された第80代高倉天皇(1168~1179)から多くの朱印地と「高倉山天皇院」の山号と寺号を賜りました (行基開創49院」第一番「高倉寺」に伝わる伝承より抜粋)

 
                            金堂

 
        御影堂     

高倉寺を出て、パンジョ付近のエドヒガンザクラを目指す。
 
                            紫モクレン

 
             パンジョ付近のエドヒガンサクラ

最期に、1週間後の泉ヶ丘駅北側のヒガンザクラと、三原台のコブシの画像は下記です。
 

     M.miki