朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

すぐに、出て行ってみるといいようですね。示されたとおりに。

2015-09-30 22:42:35 | 聖書から
主は御使いを遣わされた。創世記24:7

主の天使はフィリポに、
「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。

そこは寂しい道である。
フィリポはすぐ出かけて行った。使徒8:26~28
...

      (ローズンゲン日々の聖句10/1;木)

 天の神、主は、私たちを遣わして何かをしようと思われるとき、私たちの先に御使いを遣わし、私たちが事を行えるように、整えてくださるようですね。

 エルサレムでイエスの弟子、ステパノが殺害され、激しい迫害が起こったとき、フィリポはサマリヤの町へ行き、イエスによる救いの知らせを伝え、多くの人がイエスを信じ受け入れたのだそうです。

 そのあと、主は、フィリポに、「エルサレムからガザへ下る道に行け」と言われたのだそうですが、そこは寂しい道で、人のいない、ほとんど人の通らない所だったようですね。そんなところに行ってなんになるのかと思えるような。
 けれども、フィリポは、すっと従えたのか、いろいろやり取りはあったのかもしれませんが、ともかく、言われたとおりにそこに出かけて行ったのだそうです。

するとどうでしょう。ちょうど、エルサレムから下って来たエチオピアの女王カンダケの高官に出会い、
彼が読んでいたイザヤ書53章の、
「ほふり場に連れて行かれる羊のように、
また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、
彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。
彼の時代のことを、だれが話すことができようか。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」の箇所が、
イエスについて語られた預言であり、この預言の通りにイエスは十字架刑で処刑されて、私たちに救いを与えて下さっていることを解き明かし、この宦官はイエスを信じ、フィリポからバブテスマを受け、喜びながらエチオピアに帰って行ったのだそうです(使徒8:26~39)。

 私たちも、「聖である霊」と呼ばれる方によって、心に「父である神」と呼ばれる方からの思いが来たとき、いろいろ思うかもしれませんが、その思いも全部申し上げ、聞いていただいて、ともかく、その思いについて行ってみると、天の神、主のほうで道を備えていて下さって、主の御業を見ることになるのだそうですね。
今日も。


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生き生きとした希望に生きさせて下さるのだそうですね。天地の造られる前から、あの方

2015-09-30 08:03:01 | 聖書から
主よ、あなたは私たちの父です。
 「私たちの贖(あがな)い主」
 これは永遠の昔からあなたの御名です。イザヤ書63:16

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめ称えられますように。
神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、
 死者の中からのイエス・キリストの復活によって、
 生き生きとした希望を与えられた。Ⅰペテロ1:3


      (ローズンゲン日々の聖句9/30;水)

 私たち、すべての人間の父となろうと願われ、罪のもとにさまよい出た私たち、一人一人を、代価を支払って買い戻そうと計画された方。永遠の昔から。

 天と地が造られる前、天の神、主が、人を造ろうと思い立たれたとき、「われわれのかたちとして、我々に似せ」(創世記Ⅰ:26)たものを、と思われたのだそうです。

 「御父」と「御子」と「御霊」、あるいは「聖である霊」と呼ばれる方が、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠・不変の方でありながら、互いに愛し合っておられるゆえに、自発的に、自分から進んで一つになっておられる。
御父は御子に、御霊と呼ばれる方に、ご自分の思っておられることを全部明かしておられ、御子と御霊は、御父を愛し、尊敬するゆえに、御父の御思いが成ることをひたすら願っておられ、心を一つにしておられるのだそうです (ヨハネ8:28、12:49~50、16:13)。
その、一つになっておられるかたちを現すもの、似たものをと望まれ、願われたのだそうです。

 けれども、問題がありました。
愛し合うゆえに、自由意思で、自発的に、一つに加わって欲しいのだそうですが、人間は、その自由意思で、愛し合い、心を一つにしているよりも、自分がトップになり、自分一人の理性の判断で善悪を決定する者になろうとするであろうことが。

 それで、御子である方が提案されたのですね。
「もし、人間がそのような生き方を選び取ったときは、わたしが、人間となり、人の世に降って、人間の罪を負い、わたしのいのちを贖い(買い戻し)の代価として差し出しましょう」と。

 そして、御霊あるいは聖である霊と呼ばれている方が、「では、わたしが、あなたの贖い(買い戻し)を受け取った者の内に行って、御父の御思いをその心に置き、御父と一つ思いを思う者にしましょう」(エレミヤ31:34、エゼキエル36:26~27)と。

 これらのことが確認されて、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)ということになり、その人の住む場所として、この天地、宇宙、この地球の自然環境が造られ、用意されることになったのだそうです(創世記1:1~25)。

 人間は、予想どおり、天の神、主と一つになっていることよりも、自分の理性の判断を最優先させて、自分一人で善悪を決める、トップの座に自分を置こうとする者の道をえらんだのだそうです(創世記3:1~22)。

 それで、ご計画の時が満ちて、今から2000年ほど前、御子である方が、人間イエスとして、処女マリヤの胎を通して、人の世に生まれられ、およそ、33歳のころ、十字架刑で処刑されてくださり、墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、復活なさったのだそうです。
天の神、主は、このイエスの処刑を、「善悪を知る者」になり、ご自身からさまよい出ている、私たち全ての人間、一人一人の「生まれたときからの霊」の処刑とみなしてくださり、これを受け取った者の内に、新たに「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して下さって、この方の働きによって、ご自身と思いを一つにし、行動を一つにし、栄光を一つにする者にと、新しく生まれた者としてくださるのだそうです(ヨハネ3:1~8)。

 私たち、イエスの十字架刑での処刑を、私の処刑としていただき、聖である霊と呼ばれる方をお迎えして、「父である神」と呼ばれる方が、私を通してしようと思っておられることをしていく、栄光に富んだ、生き生きとした生き方をさせていただけるのだそうですね。
今日も。


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