朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

新しい神の都、シオン(エルサレム)において

2018-07-17 22:18:57 | 聖書から
 背信の子らよ、立ち帰れ、
と主は言われる。
わたしこそあなたたちの主である。
わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。エレミヤ3:14

 わたしのもとに来る人を、
わたしは決して追い出さない。ヨハネ6:37

 使徒10:(21~23)24~36
 ヨハネ5:31~47(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/18;水)

 私たち人間は、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方によって、
「われわれのかたちとして、
われわれに似せて」(創世記1:26)、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に一つになっていらっしゃる、
そのご自身との一つに加わる者を、
との願いで造られたものなのだそうです。

 けれども、最初の人アダムは、
その、造られた場に満足せず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
神にそむき、対立、対抗して、
自分一人の理性の善し悪しの判断で事を決めていく、
創造の目的から「的が外れた者」、
ずれてしまった者になったのだそうです。

 そして、アダムの子孫である私たちは、
そのアダムの「的外れ」を引き継いで生まれて来ているのですね。

 それでも、天の神、主は、
私たちを見捨てず、
私たちを大切に思っていてくださって、
創造の目的のとおりに回復しようと計画してくださったのだそうです。

 〔御子である神〕が人間イエスとして人間の歴史の中に来られ
この方が私たち人間の身代わりとなり、
私たち人間の「的外れ」の責任を負って、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、このイエスが受けてくださった処刑によって
私たちの処罰が終わっているものとしていてくださって、
私たちがこのままで神のもとに帰って行けるようにしていてくださるのだそうです。

 そして、神の民、イスラエルにだけではなく、
異邦人の私たちにも言われるのですね。
「背信の子らよ、立ち帰れ」と。

 そして、帰って来た者を、
神は決して捨てたりて追い出したりはしないのだそうですから。

 天の神、主は、
異邦人である、ローマ軍の百人隊長、コルネリオの求めに応えて、
コルネリオの家に使徒ペテロを派遣されたのですね。
そして、ペテロがイエスのことを語っている最中に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
ペテロの話しを聞いていた人々に臨み、
彼らは、この方が語らせられるままに、
異言を話し、神を賛美するようになったのだそうです(使徒10:21~46)。

 こうして、
天の神、主は、
ユダヤ人だけでなく異邦人も、
かたよりなく受け入れてくださることを証しされたのだそうです。

 〔父である神〕は、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑を
私たち自身の〔生まれたときからの私〕という霊の処刑としてくださり、
これを受け取った者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり、
書きつけてくださるのだそうです。

 それで、私たちが
〔父である神〕と同じ思いを思い、
心を一つにして生きることが、
私たちが神に受け入れられていることの証しとなり、
私たちをとおして〔父である神〕の御思いが成っていくことが
証言ともなっていく(ヨハネ5:36)というのですね。

 そして、この世の人生を終えて
〔父〕のもとに帰ったら時、
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたはわずかな物に忠実だったから、
わたしはあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)
と言っていただける栄誉を(ヨハネ5:44)、受けるようにしてくださるのだそうです。

 新しい神の都、シオン(エルサレム)において。
私たち、その希望の中に。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

祭司の王国、聖なる国民としてくださって

2018-07-17 08:15:08 | 聖書から
 主の言葉:
あなたたちは、
わたしにとって、
祭司の王国、
聖なる国民となる。出エジプト記19:6

 イエスの言葉:
あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。ヨハネ20:21

 マタイ22:1~14
 ヨハネ5:24~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/17;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちを「祭司の王国」、「聖なる国民」としようと
思っていてくださるのだそうですね。

 それで、私たちの
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
ご自身に逆らい、背き、対立、対抗している
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の「的外れ」を解決するために、

 ご計画の時が満ちたとき、
〔御子である神〕が、
アダムの「的外れ」の性質を受け継がない「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデ王の子孫であるナザレ村の貧しい一処女、
マリヤの胎を通して、
人間イエスとして人の世に来られたのだそうです。

 そして、およそ33歳の頃、
私たちの「的外れ」の責任をご自分の身に負って
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
この、御子イエスの受けられた処刑を
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑としてくださり、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっている者、死んだもの(ロマ6:4~11)、としてくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
処刑され、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人のうちから新しい霊のからだによみがえらせ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語るようにされ、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
上げられ、雲に迎えられて見えなくされ(使徒1:3~9)、
ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです。

 そして、このイエスを通して、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって(ヨハネ14:16、ロマ8:15)、

 bこの方によって
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
私たち心に置き、
私たちがご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受けれる者は、
自分の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは
死んだものから出て来た思いであると認めて(計算して)、
これをイエスの御前に差し出し、受け取っていただきながら、
イエスがそうであったように、
〔父である神〕の御思いで生きるようにしていただけるのだそうです。

 〔父である神〕と思いを一つにする聖別された者、
この世から取り分けられた者とし、

 祭司、
この世の人々と神との間に立って、
御思いを受けて執り成していく者にと。

 神ご自身の平和をもって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方に覆われ、包まれながら、
今、置かれているそれぞれの場所に神によって派遣された者に。

 道ばたから、王の宴会の席に連れて来られた人のように、
〔父である神〕が用意してくださった礼服、
イエスの義(神との正しい関係)を着て(マタイ22:11~13)。

 「自分自身の望むことを求めず、
遣わした方のみこころを求める」ようにしていただきながら(ヨハネ5:30)。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)