朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

乳飲み子が、母親の世話をそのままに受け入れるように

2017-07-04 08:17:15 | 聖書から
遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。
あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。
長老に尋ねれば、話してくれるだろう。申命記32:7

 イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。」ルカ18:16

 士師記10:6~16
 使徒14:1~7(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/4;火)

 遠い昔の日々、民をエジプトでの奴隷の苦役から救い出し、荒野での40年を守り、導き、運ばれたことを聞きなさい、思い起こしなさいということでしょうか。

 天よ。耳を傾けよ。
地よ。聞け。私の口の言葉を。
主は岩。主の御業は完全。
まことに、主の道はみな正しい。
主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。
あなたがたはこのように主に恩を返すのか。
愚かで知恵のない民よ。
主はあなたを造った父ではないか。
主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか」(申命記32:1~6)と。


 また、言われるのだそうです。
「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
あなたがたの父アブラハムとあなたがたを産んだサラのことを考えよ。
わたしが彼ひとりを呼び出し、私が彼を祝福し、彼の子孫を増やしたことを。
まことに主はシオンを慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにされる。
そこには楽しみと喜び、感謝と歌声がある。
わたしの民よ。わたしに心を留めよ。
わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ」(イザヤ51:1~4)とも。

 だから、「乳飲み子、幼子のように聞き、受け入れる者になってほしい」と。


 イスラエルの民は、生活が安定し、充分に食べられるようになると、
周りの国々の神々に仕え、主を捨て、主に仕え亡くなったのだそうです。
それで、天の神、主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、
彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡されたのだそうです。

それで、非常な苦境に立った時、イスラエル人は主に叫んで言ったのだそうです。
「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです」と。

 すると主はおおせられたのだそうです。
「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。
シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたをしいたげたが、
あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。

しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。
だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。

行け。そして、あなたがたの選んだ神々に叫べ。
あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい」と。

 すると、イスラエル人は、
「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。
ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください」と言い、
自分たちのうちから、他の神々を取り去って主に仕えたので、
天の神、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなって、助け手を送られたのだそうです(士師記10:6~16)。


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たち、聞く耳を持たない者であり、
自分の思いのとおりに生きたい、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)も、
その〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって処刑されたもの、死んだものとしてくださって、死亡手続きを済ませてくださり、
そのイエスを通して派遣してくださるもう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
受け入れる者の心に、私たち一人一人に持っておられる御思いを置いてくださり、一新された、新しい心で生きる者にしてくださるのだそうです。

その御思いに聞き、御思いについて行き、〔父である神〕が一人一人を通してしようと思っておられることをしていく者にもしてくださるのだそうです。

パウロとバルナバが、迫害の中で、導かれるままに次々と次の町へ進み、十字架に架かり死なれ、復活されたイエスによる罪の赦しがと、そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方による、神の子とされた新しい生き方を伝えていったように(使徒14:1~7)。
今日も。
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心の中で、火のように燃え上がる思いが

2017-07-03 07:51:11 | 聖書から
エレミヤの言葉:
主の名を口にすまい、
もうその名によって語るまい、と思っても、
主の言葉は、私の心の中、火のように燃え上がります。エレミヤ書20:9 

 私たちは、
見たことや聞いたことを
話さないではいられないのです。使徒4:20

 ルカ7:36~50
 使徒13:44~52(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/3;月)

 エルサレムがバビロン軍によって攻撃されようするとき、
私たちには神の神殿があるから異邦人がここに入ってくることはないと信じて徹底抗戦をしようとしている人たちの中にあって、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、エレミヤを預言者として立て、
「バビロン軍のところに降って命を得よ」と伝えさせるのですね。

 しかし、エレミヤが語ったように、すぐにエルサレムが滅びるわけではなく、
当然、エレミヤは周りから、偽預言者とみなされ、民を惑わす者として迫害されるのですね。

それで、エレミヤは、もう、神から告げられたことばを語るのをやめようと思うのですが、
神のことばがエレミヤのうちで火のように燃え上がり、
それを押え、語らないでいることに疲れてしまったというのですね。

 イエスが十字架刑で処刑された後、
三日目に墓より復活されたイエスに出会い、復活されたイエスと共に過ごした弟子たちは、
イエスが天に帰られるとき、言い残していった
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」との言葉に従って、
エルサレムに残っていたのだそうですが、
10日後の五旬節(ペンテコステ)の日に、
俄然、弟子たち一人一人に〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
弟子たちはこの方が話させようとされるままに話し出したのだそうです(使徒1:3~14、2:1~4)。

 ペテロとヨハネが、午後3時の祈りの時間にエルサレム神殿に出かけたとき、
美しの門に運ばれ、物乞いをしていた、生まれた時から足がなえて歩いたことのない、40歳余りの人に、
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。
ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなって、躍りあがってまっすぐに立ち、歩いたり、はねたりしながら神を賛美し、二人といっしょに宮に入って行ったのだそうです。

 驚いて集まってきた人たちに、ペテロは、
「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、神は、死者の中からよみがえらせました。
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くし、完全なからだにしたのです。

あなたがたも罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりを、その邪悪な生活から立ち返らせてくださるように」と勧め、これを聞いた人たちが大勢信じ、男の数が5000人ほどになったのだそうです。

イエスを十字架刑で処刑した側のユダヤの指導者たちは、二人を捕らえたのですが、人々の手前、二人を罰することができず、
「いっさい、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じたのですが、
二人は、「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」と答えたのだそうです(使徒3:1~4:22)。

 借金でも、自分の罪でも、多く赦された者は多く愛するようになるようです(ルカ7:36~50)。
多く赦された感謝は、大きな行動になって現れ、これをとどめようとする力を超えて燃え広がっていくようですね。
イエスの出来事が、ユダヤ人の迫害にあって、異邦人へと広まっていったように(使徒13:44~52)。
今日も。
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自分も相手も、大切な存在に

2017-07-02 08:14:04 | 聖書から
人の子は失われたものを捜して
救うために来たのである。ルカ19:10(7/2の週の聖句)

 あなたは隣人を虐げてはならない。レビ記19:13

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。フィリピ書2:3

 ルカ15:1~3、11b~32
 詩12(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/2;Ⅰ日)

 イエスは、自分は正しい生き方ができている、立派にやれていると思っている人を招くためにではなく、迷い出ている者、失われたものを捜し出して救うために来られた方、
ダメなものを目がけて来て下さった方なのだそうです。

 それで、自分は神の律法をちゃんと守っている、自分は正しい人間だと思っている人たちから、「あの人は罪びとのところへ行って客となった」との非難も恐れず、人々から「罪びと、取税人の奴ら」と言われている人のところへも自由に出入りされ、救いを届けられ(ルカ19:1~10)、失われ、いなくなっていた者が見つかると大喜びをされるのだそうです(ルカ15:1~3、11b~32)。

 私たちは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方(出エジプト3:14)から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて造られていながら、
その、天の神、主と心を一つにしている場に留まろうとしないで、
もっと素晴らしい者に「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとして(創世記3:5、22)、
天の神、主に対立、対抗する者になり、
自分一人を、誰よりも、神よりも上の位置に置き(イザヤ14:13、14)、
誰よりも優れた者、能力のある、知識のある者にならないと気が済まない者、
善いもののすべてを自分一人で独占しようとし、
自分よりも弱いものを虐げる性格を持つ者のようです。

それで、自分中心に考え、自分を実態よりも善く見せようとし、
自分のほうが相手よりも善いものだと思うことで安心するもののようです。

 この、〔神のひとりのようになり、善悪を知る者〕になっている、〔生まれた時からの私〕という霊を、〔父である神〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、受け入れる者に、イエスを通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
この方によって、受け入れる者の心に、ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、書き付けてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、一つの存在になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、この方の働きを受ける者は、〔父である神〕が思っていらっしゃるとおりに、へつらいのくちびる、二心と傲慢の舌(詩篇12:2~3)を、「処刑されたもの、死んだもの」から出てきた思いと見極めてイエスの足元に投げ捨てながら、相手を大切に思い、尊重する心にもしていただけるのだそうです。
失われたものであったのに、見出された、喜びの存在に。
この新しい週も。
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私の足がよろめくそのとき、神の慈しみの御手が下から支えて

2017-07-01 07:36:24 | 聖書から
「足がよろめく」と私が言ったとき、
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。詩94:18

 パウロの手紙:
私たちとあなたがたとを
キリストに固く結び付けてくださったのは、神です。Ⅱコリント1:21

 ヨナ書2:1~11
 使徒13:26~43(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/1;土)

 私たちの足がよろめくとき、天の神、主の慈しみが私たちを支えてくださるのですね。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、約束のことばを、ことごとく、イエスによって「然り」、「ほんとう」としてくださっているのだそうです。
そして、私たちをキリストに固く結び付け、キリストのうちに固く保ち、
確認の印を私たちに押し、
保証として〔聖である霊」と呼ばれる方を私たちのうちに派遣してくださっているのだそうです。

 天の神、主は、私たちが苦しみの中からお願いすると、答えてくださる方。
たましいがわたしのうちに衰え果てるとき、
この方を思い出し、祈ると、
私たちの祈りは御前に届くのだそうですから(ヨブ2:1~11)。

 バプテスマのヨハネは、イエスについて、
「御覧なさい。その方は私の後からおいでになります。
私は、その方のくつのひもを解く値打ちもありません」と証言したのだそうですが、
エルサレムに住む人たちとその指導者たちは、
イエスに死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、
総督ピラトに強要して、十字架刑で処刑し、
旧約聖書でキリストについて書いてあることを全部なし終えたのだそうです。

しかし、墓に納められたイエスを、
神は、1000年ほど前に、ダビデを通して、
「あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない」と言っておられたとおりに、
死者の中からよみがえらせ、
幾日にもわたって、イエスといっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに現させ、
その人たちをイエスの復活の証人とされたのだそうです(使徒13:26~43)。

 このイエスによって、私たちにも罪の赦しが与えられ、
モーセをとおして与えられた神の律法を自分の力、努力で守ることでは解放されることのできなかったすべての点について、
信じ、受け取る者はみな、このイエスによって解放されるのだそうです。

 そして、「子」としてくださる、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるので、
この方によって、「子」の立場で、
イエスと同じように、「父よ」と呼び、祈ることができるのだそうですから。

 足がよろめく、その場所で、下から支えてくださる神の御手(申命記33:27)を経験できるのだそうですから。
今日も。
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