朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

互いに安否を問い合い、補い合う思いが心に来て

2017-08-25 08:46:03 | 聖書から
エッサイはダビデに言った。
「兄さんたちの安否を確かめ、
そのしるしをもらってきなさい。」サムエル記上17:18

 テトスは同志であり協力する者です。
これらの(他の二人の)兄弟は諸教会の使者でキリストの栄光となっています。
だからあなたがたの愛の証しと
あなた方の事で私達が抱く誇りの証しとを
諸教会の前で彼らに見せて下さい。Ⅱコリント8:23~24

 哀歌5:1~22
 使徒28:1~16(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/25;金)

 ペリシテ人が戦いのために軍隊を招集し、彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いたのだそうです。
それで、サウル王とイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをしたのですね。

 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人、エッサイの8人いる息子の末っ子で、父親の羊を飼っていました。
エッサイの上の息子たち3人は、サウルに従って戦いに出ていたのだそうです。
それで、父親のエッサイがダビデに、戦場に行って、兄さんたちの安否を確かめて来るよう、言いつけたのですね。

 パウロが、コリントの教会にこの手紙を書いた当時、エルサレムに残っている弟子たちは、飢饉や政情不安、迫害のため、貧しい人たちが多かったようです。
それで、パウロがイエスによる救いを伝えたアジア(今のトルコ)や、マケドニア、ギリシャの教会では、エルサレムの貧しい弟子たちのために献金を届けようとしていたのだそうです。
パウロは、この献金についても、だれからも非難されることがないよう、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大であるようにと、
パウロの弟子であるテトスのほかに、諸教会によく知られている二人の兄弟を同行させようとしたようです。

 この献金については、コリントの教会の人たちが、
「昨年から、他に先んじて願い、行っているもの」だったようです。

 そして、「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになり、こうして平等になるのです。
『多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった』(出エジプト16:18)と書いてあるとおりです」とパウロは言うのですね(Ⅱコリント8:1~15)。

 このように、主を神とする人々、主の嗣業(相続財産)としていただいた人々同志は、神の愛の御思いが心に来て、互いに安否を問い合い、愛し合うのだそうです。

 たとい、その人が、その人の犯した罪によって神に打たれているとしても、
神は極みまでその人を怒られ、退けてしまわれる方ではなく、
ご自分のもとに帰って来るようにと呼びかけ続けておられるのだそうですから(哀歌5:1~22)。

 十字架刑での処刑を受けられ、死んでよみがえられ、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスがお遣わし下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心にも、この〔父である神〕の熱い御思い、互いを思いやる思いを置いてくださるのだそうです。
今日も。
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力を、恵みを持つ方に信頼して

2017-08-24 08:30:26 | 聖書から
暴力に依存するな。
搾取を空しく誇るな。
力が力を生むことに心を奪われるな。詩62:11

 レビ族の人で、使徒たちがバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
持っていた畑を売り、
その代金を持って来て使徒たちの足元に置いた。使徒4:36~37

 ロマ書11:25~32
 使徒27:27~44(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/24;木)

身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りで、はかりにかけると、彼らは上に上がり、彼らを合わせても、息よりも軽いのだそうです。
だから、圧政にたよるな、略奪に空しい望みをかけるな、富がふえても、それに心を留めるな、と言われるのですね。
なぜなら、力は、神のもの、恵みも神のもの、
この方が、人をその、しわざに応じて報いられるのだそうですから(詩篇62:9~12新改訳)。

イエスが十字架刑での処刑を受けられ、
三日目に死人の中より復活され、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語った後、
「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と言い残して、
オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、天の〔父である神〕の右の座に帰られた、
その10日後の、五旬節(ペンテコステ)、
モーセによる律法契約締結の記念日に、
イエスの言葉のとおりに、待ち望んでいた弟子たちに〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
ひとりひとりの上にとどまり、
弟子たちはこの方が語らせられるままに語るようになり、
新しい契約(エレエミヤ36:31~34)が実現したのだそうです(使徒2:1~4)。

その、新しい契約によるイエスの弟子たちの群れ(キリスト教会と呼ばれている)が始まった当初(初代教会の頃)、
信じた者の群れは、心と思いを一つにして、
だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていたので、
彼らの中にはひとりも乏しい者がなかったのだそうです。
このバルナバのように、地所や家を持っている者が、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足元に置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたのだそうですから。(使徒4:32~36)。

この頃のイエスの弟子たちは、みな、ユダヤ人だったのですが、
ユダヤ人全体としては、彼らはイエスをキリスト(救い主として人の世に来られた御子である神)と認めず、
この道に反対したために、
この、イエスによる救いは、神の民イスラエル(ユダヤ人)を離れ、異邦人がこれにあずかることになったのですが、
やがて、異邦人の救いが完成するとき、イスラエル人もみな、救われるのだそうです。
「救う者がシオン(エルサレム)から出て、ヤコブ(イスラエル)から不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である」(イザヤ59:20~21)
と書かれているとおりに(ロマ11:25~32)。
 神の約束のことばは必ず成るのだそうですから。

 船乗りたちも死を覚悟する嵐の中で、パウロに
「恐れてはいけません。パウロ。
あなたは必ずカイザル(ローマ皇帝)の前に立ちます。
そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」と言われた方は、
嵐の中での14日の漂流の後、船に乗っていた276人全員をマルタ島に上陸させてくださったのだそうですから(使徒27:27~44)。

私たちもこの方に信頼して、
今日も。
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神々の中の神、主の中の主、「わたしがそれだ」と仰る方が

2017-08-22 23:12:24 | 聖書から
あなたたちの神、主は神々の中の神、
主なる者の中の主、
偉大にして勇ましく畏(おそ)るべき神、
人を偏(かたよ)り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをしない。申命記10:17

 イエス・キリストの言葉:
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。マタイ28:18

 ヨハネ4:19~26
 使徒27:13~26(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/23;水)

天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のものなのだそうですね。
この方は、私たち一人一人を恋い慕って、愛していてくださり、
私たちに、ご自分の子、家族になってほしいと言っておられるのだそうです。

だから、私たちも、心の包皮を切り捨て、
うなじのこわい、首筋の堅い、
自分の理性による善悪の判断を一番よいものとして、その判断のとおりを実現しようとし、
頑固に自分の判断を押し通そうとする私自身、〔生まれた時からの私〕という霊を
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、処刑済み、死んだものとしてくださり、
自分の善悪の判断は、イエスによって〔父である神〕の御前に投げ出しながら生きるようにしてくださるのだそうです。

そして、復活し、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、
この方が、〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださるので、
私たちも、この、心に来た〔父である神〕の御思いによって行動する、心の包皮の取り除かれたものとしての生き方を生きるようにしてくださるのだそうです。

 〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、〔父である神〕を愛し、
自分の思いが成ることではなく(ヨハネ6:38)、心を尽くし、精神を尽くして、〔父である神〕の御思いが成ることだけを願っておられる(申命記10:12)、
その愛の熱い御思いが私たちの心にも来るのだそうですから(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26)。

人を偏り見ず、みなしごや、やもめのために正しい裁判を行い、
在留異国人を愛して、これに食物と着物を与えられる御思いも。

そして、イエスは、「このわたしがそれだ」と、〔御子である神〕だとおっしゃったのだそうです(ヨハネ4:26)。それで、イエスは、パウロが、ローマに護送される船の中で、ユーラクロンという暴風に遭い、
太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、
助かる最後の望みも絶たれようとしているとき、
パウロに現れ、パウロを通して、「皆さん。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。
『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザル(ローマ皇帝)の前に立ちます。
そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』 
ですから、皆さん。元気を出しなさい。
すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」と言うことができるお方だったのですね(使徒27:13~26新改訳)。

このお方が、私たち一人一人を恋い慕って、愛していてくださり、
思いを同じくし、心を一つにしながら歩もうよと言っておられるのだそうですから。
今日も。
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約束による相続人にしてくださり

2017-08-22 07:50:05 | 聖書から
主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、
彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはなさらず、
今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった。列王記下13:23

 あなた方はもしキリストのものだとするなら、
即ち、アブラハムの子孫であり約束による相続人です。ガラテヤ書3:29

 哀歌1:1~11
 使徒27:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/22;火)

紀元前815年頃のこと、エフーの子エホアハズが北イスラエル王国の王となったのですが、
彼は主の目の前に悪を行い、
ネバテの子ヤロブアムの罪
(金の子牛を造って、ベテルとダンに置き、これを神として民に拝ませ、
民がエルサレム神殿に礼拝に行かなくてもいいようにした)
を犯し続けて、それを止めようとはしなかったのだそうです。

 それで、天の神、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、
主は彼らをアラムの王ハザエルとハザエルの子ベン・ハダテの手にいつまでも渡しておられたのだそうです。
アラムの王ハザエルは、エホアハズの生きている間中、イスラエル人をしいたげたのですが、
主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、
彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、御顔をそむけてしまうことはなさらなかったのだそうです。

 私たちも、イエスの十字架刑での処刑を、自分の処刑としていただき、
復活され、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして
、自分自身をキリストのものにしていただき、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして生きる者は、
神の恵みによってアブラハムの子孫、約束による相続人として、〔父である神〕と親子の関係を持ちながら生きさせていただけるのだそうです。
今日も。
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完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのない者とし、

2017-08-21 10:25:49 | 聖書から
主は決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く、
懲らしめられてもまた憐れんで下さる。哀歌3:31~32

 あらゆる恵みの源である神、
即ち、キリスト・イエスを通して
あなた方を永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、
しばらくのあいだ苦しんだあなたがたを完全な者とし、
強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さいます。Ⅰペテロ5:10

 ロマ書11:1~12
 使徒26:24~32(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句8/21;月)

「天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、いつくしみ深い方。
主を待ち望み、主を求めるたましいに。

主の救いを黙って待ち望むのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙って座っているがよい。
口をちりに着けよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分にそしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(哀歌3:25~33新改訳)
のだそうです。

天の神、主は、あらゆる恵みの源であり、
私たちを永遠の栄光の中に招き入れてくださる方。
苦しみも用いて、私たちを、完全な者にし、固く立たせ、強くし、不動の者としてくださる方なのだそうですから。

今、ユダヤ、イスラエルの人々は、イエスを受け入れず、イエスを通しての神の恵みから外れてしまっているかのように見えます。
けれども、神は、あらかじめ知っておられたご自分の民をしりぞけてしまわれることはないのだそうです。
彼らの違反によってイエスによる救いが異邦人に及ぶことになり、
彼らの失敗が私たち異邦人の富となったのなら、
彼らの完成は、さらに素晴らしいものをもたらすことになるのだそうです(ロマ11:1~12)。

ユダヤの領主、アグリッパ王の前でのパウロの弁明、
キリストは苦しみを受けること、
また、死者の中からの復活によって、
この民(ユダヤ人)と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、とのパウロの弁明は、
ローマ人、総督フェストには、パウロが博学によって気が狂っていると思われたようです。
パウロがカイザル(ローマ皇帝)に上訴していることで、パウロは、ローマ帝国の権威によってローマに護送されることになり、ユダヤ人からの殺害から守られ、
カイザル(ローマ皇帝)の前での弁明で、このイエスによる救いを語ることになったのだそうです(使徒26:24~32)。

私たち、困難や苦難、いわれのないはずかしめ、そしりの中に置かれることもありますが、
主は、いつまでも捨て置かれることはないのだそうです。
自分を打つ者に頬を与え、十分にそしりを受けているなら、
主は、豊かなあわれみによって、私たちを完全な者にし、強め、力づけ、揺らぐことのない者とし、永遠の栄光にふさわしい者にしてくださるのだそうですから。
今日も。

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