朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

主の家に帰り、永遠の命の中を

2018-01-26 21:50:23 | 聖書から
命のある限り、
恵みと慈しみとはいつまでも私を追う。
主の家に私は帰り、
生涯、そこにとどまるであろう。詩23:6

 はっきり言っておく。
わたしの言葉を聞いて、
わたしをお遣わしになった方を信じる者は、
永遠の命を得、
また、裁かれることなく、
死から命へと移っている。ヨハネ5:24

 民数記6:22~27
 申命記8:1~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/27;土)

 私たちの命のある限り、
天の神、主からの恵みと慈しみがいつまでも私たちを追いかけて来るのだそうです。
主の家に帰らせてくださり、
子としてくださり、
ご自身の家族として、
いつまでも主の家に住まわせてくださるのだそうですから。


永遠の命とは、
唯一のまことの神である〔父である神〕と
〔父である神〕が人間の世界に遣わされた〔御子である神〕、
イエス・キリストを体験的に知ること(ヨハネ17:3)なのだそうです。
この方との親しい交わりの中で生きること、なのでしょうか。


イエスの言葉を聞いて(それを記録した、あの本「聖書」を読んで)、
イエスを遣わされた方、〔父である神〕を信じる者は、
永遠の命(父である神、御子である神イエスとの親しい交わり)の中に入れていただけ、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせてくださって
処罰が終わっている者として、
もう、裁きは残っていない者としてくださり、
死から命に移してくださるのだそうです。


それで、言っていただけるのだそうです。
「天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が
あなたを祝福し、
あなたを守られるように。
主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安をあたえられますように」(民数記6:24~26)、と。


「人はパン(食物)だけで生きるのではない、
人は主、「『わたしはある』という者」と呼ばれる方の口から出る
すべてのもので生きる」のだそうです。


私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださり、
三日目に死人の中より新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方。
私たちも、この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって
生きる者にしていただけるのだそうです。
永遠の命、 
〔父である神〕、〔御子である神、イエス〕との親しい交わりの中を。
今日も。

虫けら、役に立たない者、居ないほうがいい、場所ふさぎの者を招いてくださって

2018-01-25 22:20:41 | 聖書から
イスラエルよ、
あなたはわたしの僕、
わたしはあなたを選び、
決して見捨てない。イザヤ書41:9

 神の賜物と招きとは取り消されない。ロマ書11:29

 Ⅰコリント2:6~10
 申命記7:12~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/26;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は言われるのですね。

しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ、
わたしの友、アブラハムのすえよ。

わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。

見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな、
恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、
無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争うものを捜しても、
あなたは見つけることばできず、
あなたと争う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、
あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ、
イスラエルの人々。
わたしはあなたを助ける。
 ――主の御告げ――
あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
あなたは主によって喜び、
イスラエルの聖なる者によって誇る(イザヤ41:8~16新改訳)、と。

 神の賜物と招きとは変わることがなく、
取り消されることもないのだそうです。
それは、私たち、人間の側の善さとか、資格、努力によるのではなく、
私たちの側は「虫けら」のよう、
役に立たない者、無いほうがいい者のであるのに(ルカ16:10)、
天の神、主の側でのあわれみ、
私たちを大事に思っていてくださる、
その御思いに依っているのだそうですから。

 〔父である神〕は、御子である方、
天使の万軍に号令される栄光の主を、
「女の子孫」(創世記3:15)として、人の世に送り、
この方を、私たちの身代わりとし、
私たちが赦されるために、
私たちの罪を背負ってほふられる犠牲の小羊として、
木にかけて処刑し、私たちを赦そうとしておられるのだそうです。

 これは、この世界の始まる前から、天地創造の前から、
神ご自身の御心の中で決められていたことであって、
この隠された奥義としての神の知恵を、
この世の支配者たちは、だれひとりとして悟らなかったのだそうです。
もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょうから。

 まさしく、
「目が見たことのないもの、
耳が来たことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」のですね。

 神はこれを、「聖である霊」と呼ばれる方によって
私たちに啓示してくださっているのだそうです(Ⅰコリント2:6~10)。

 2000年前の支配者たちと同じように、
今も、この啓示を無視する人たちもいますが、
けれども、私たち、やがて、
このほふられたと見える小羊(黙示録5:6)、
手と足に十字架刑での処刑で開いた釘の穴、
わき腹に槍で突き刺された傷跡を持つ方(ヨハネ20:20、24~28)
の前に立つことになるのだそうです。

 〔父である神〕は、
私たちのからだの中の「先住民」(申命記7:12~26)であり、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)
「生まれたときからの霊」を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑が済み聖絶されたもの、死んだものとしてくださり、
このイエスをとおして来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって、
〔父である神〕が
私たちひとりひとりを通してしようと思われることを、
私たちひとりひとりがしていく者にしようと
招いていてくださるのだそうですから。
今日も。

神の愛の心が留まるのだそうです。私たちの内にも。

2018-01-24 22:37:55 | 聖書から
施すべき相手に善行を拒むな、
あなたの手にその力があるなら。箴言3:27

 世の富を持ちながら、
兄弟が必要な物に事欠くのを見て
同情しない者があれば、
どうして神の愛が
そのような者の内にとどまるでしょう。Ⅰヨハネ3:17

 黙示録1:(1、2)3~8
 申命記7:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/25;木)

「出直してくれ。明日、あげよう、と友に言うな。
あなたが今もっているなら。」(箴言3:28)、
とも書かれているのですね。

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛する(Ⅰヨハネ3:18)〔父である神〕の御思いを、
私たちの心にも置いてくださるのだそうですから。


 ヨハネは書き送っています。
イエス・キリストは私たちを愛して、
その(十字架刑での処刑で流された)血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、
ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

 見よ。彼(イエス)が、雲に乗って来られる。
すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが
(イエスが死んでいることを確認するため、
ローマ兵がイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た、のだそうです。
赤血球と血清が分離していたということでしょうか)、
彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。
しかり。アーメン。


 神である主。
今いまし、昔いまし、後に来られる方。
万物の支配者がこう言われる。
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(ω)である」(黙示録1:5~8)、と。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方と
心を一つにして生きる場から的外れになっている者であり、
余分に持っていて、困っている人を見ても、出し惜しみする心の者です。

〔父である神〕は、その、「的外れ」になっている
私たちの「生まれたときからの霊」を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
死んだもの、処刑された者としてくださり、
これといっさいの関係を持ち続けない(申命記7:1~5)、
これを生かそうとしないでいいようにしていてくださるのだそうです。


イエスを通してもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によってご自身の御思いを、心に置いてくださるのだそうです。
それで、出し惜しみする私たちの心にも、
〔父である神〕の愛の御思いが来るのだそうです。


 私たち、自分の内には愛がないことを認め、
出し惜しみする思いも御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、
心に来る〔父である神〕の御思いに、
ついて行くようにしていただけるのだそうです。
天の神、主が恋い慕ってくださる、
主の聖なる民、宝の民(申命記7:6~8)として。
今日も。

神の愛の心が留まるのだそうです。私たちにも。

2018-01-24 22:36:05 | 聖書から
施すべき相手に善行を拒むな、
あなたの手にその力があるなら。箴言3:27

 世の富を持ちながら、
兄弟が必要な物に事欠くのを見て
同情しない者があれば、
どうして神の愛が
そのような者の内にとどまるでしょう。Ⅰヨハネ3:17

 黙示録1:(1、2)3~8
 申命記7:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/25;木)

「出直してくれ。明日、あげよう、と友に言うな。
あなたが今もっているなら。」(箴言3:28)、
とも書かれているのですね。

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛する(Ⅰヨハネ3:18)〔父である神〕の御思いを、
私たちの心にも置いてくださるのだそうですから。


 ヨハネは書き送っています。
イエス・キリストは私たちを愛して、
その(十字架刑での処刑で流された)血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、
ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

 見よ。彼(イエス)が、雲に乗って来られる。
すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが
(イエスが死んでいることを確認するため、
ローマ兵がイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た、のだそうです。
赤血球と血清が分離していたということでしょうか)、
彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。
しかり。アーメン。


 神である主。
今いまし、昔いまし、後に来られる方。
万物の支配者がこう言われる。
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(ω)である」(黙示録1:5~8)、と。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方と
心を一つにして生きる場から的外れになっている者であり、
余分に持っていて、困っている人を見ても、出し惜しみする心の者です。

〔父である神〕は、その、「的外れ」になっている
私たちの「生まれたときからの霊」を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
死んだもの、処刑された者としてくださり、
これといっさいの関係を持ち続けない(申命記7:1~5)、
これを生かそうとしないでいいようにしていてくださるのだそうです。


イエスを通してもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によってご自身の御思いを、心に置いてくださるのだそうです。
それで、出し惜しみする私たちの心にも、
〔父である神〕の愛の御思いが来るのだそうです。


 私たち、自分の内には愛がないことを認め、
出し惜しみする思いも御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、
心に来る〔父である神〕の御思いに、
ついて行くようにしていただけるのだそうです。
天の神、主が恋い慕ってくださる、
主の聖なる民、宝の民(申命記7:6~8)として。
今日も。

キリストの奥義、秘められた計画があるのだそうですから

2018-01-23 21:42:36 | 聖書から
主よ、お救いください。
主の慈しみに生きる人は絶え、
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。詩12:2

 パウロの手紙:
私たちのためにも祈ってください。
神が御言葉のために門を開いてくださり、
私たちがキリストの秘められた計画を
語ることができるように。コロサイ書4:3

 ヨハネ3:31~36
 申命記6:10~25(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/24;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方の
愛、慈しみに生きる誠実な人、
神のことばによって生きる人は後を絶ち、
人の子らの中から消え去り、
人は互いにうそを話し、
へつらいのくちびると二心で話すようになり、
「われらはこの舌で勝つことができる。
われらのくちびるはわれらのものだ。
だれが、われらの支配者なのか」と言っているのだそうです。


パウロは牢獄から書き送っています。
祈ってください、と。
神が御言葉のために門を開いてくださって、
キリストの奥義、秘められた計画を語ることができるように、と。

 上から来られた方、ナザレ出身の、あのイエスは、
すべてのものの上におられる方、なのだそうです。
地から出る者は地に属し、地のことばを話す。
天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

 この方は、天で見たこと、また聞いたことを証しされるが、
だれもその証しを受け入れない。
そのあかしを受けれた者は、
神は真実であるということに確認の印を押したことになるのだそうです。

 神がお遣わしになった方、上から来られた方は、
〔父である神〕の言葉を話される。
〔父である神〕が
〔御霊〕と呼ばれる方を無限に、限りなく、お与えになるのだそうですから。


〔父である神〕は、〔御子である神〕、イエスを愛しておられ、
万物を御子の手にお渡しになっているのだそうです。

 御子イエスを信じる者は永遠の命を持っているが、
御子に従わない者は、命を見ることがなく、
神の怒りがその上にとどまる(ヨハネ3:31~36)、のだそうです。


 私たち、平和で、繁栄し、食べて満ち足りるとき、
それを与えてくださっている天の神、主を忘れてしまう者、なのですね。
神である主は、ねたむ神、
ねたむほどに愛してくださっている方なのだそうです。

 私たちは、「神のようになり、善悪を知る者」になっていて、
自分の理性を神とし、
自分の理性による善悪の判断によって生きている者です(創世記3:5、22)。

〔父である神〕は、
イエスの十字架刑での処刑を、
私自身である「生まれたときからの霊」の処刑とみなしてくださり、
死んだものとしてくださって、
イエスを通して派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
心に、ご自身の御思いを置いてくださり、
その、心に来た、
〔父である神〕が正しい、良いとみられることをする者になって、
幸せになるように(申命記6:10~25)と願っていてくださるのだそうです。
今日も。